アルフレッド・ヘンリー・オキーフとは? わかりやすく解説

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アルフレッド・ヘンリー・オキーフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/14 03:31 UTC 版)

アルフレッド・ヘンリー・オキーフ
Alfred Henry O'Keeffe
オキーフの静物画 (1906)
生誕 1858年7月21日
オーストラリア、ビクトリア州
死没 1941年7月27日
ニュージーランド、ダニーデン

アルフレッド・ヘンリー・オキーフ(Alfred Henry O'Keeffe、1858年7月21日 - 1941年7月27日)はニュージーランドの画家である。1年ほどパリに留学した他は、主にニュージーランドで活動した。

略歴

現在のオーストラリア、ビクトリア州ベンディゴ近くで生まれるが、1865年までに、家族とニュージーランドのダニーデンに移り、そこで育った。父親はアマチュア画家で後にダニーデンで宿屋を経営するようになった。家具職人として働いた後、父親の宿屋の経営を手伝うようになり、1882年から1887年の間、余暇にダニーデンのオタゴ美術学校(Otago School of Art)で美術を学び、アマチュア画家たちの展覧会に出展するようになった[1]。1893年にダニーデンで結婚した。

オーストラリアの美術館でヨーロッパの画家の美術作品を見たことやニュージーランドの美術仲間の弁護士のW.M.ホジキンス(画家フランシス・ホジキンスの父親)や、ニュージーランドで教えた美術教師ペトルス・ファン・デル・フェルデンやジローラモ・ネルリからも応援されたことなどから[1]、職業画家になることを決意して、1894年にパリに留学し、6月に私立の美術学校、アカデミー・ジュリアンに入学し[1]ジャン=ポール・ローランスジャン=ジョセフ・バンジャマン=コンスタンに学んだ。パリではフランスの新しい絵画のスタイルにも触れて、作品のスタイルを変え、翌年の4月までパリに滞在した。

ニュージーランドに戻った後、妻と子供を養うために、画家としての収入だけでは十分でなく、1896年から1905年の間にはダニーデンの郊外のアウトラム(Outram)でホテルを経営した。美術教師としても働き、1920年ころまでダニーデンの美術学校で教えた。

2人の息子は第一次世界大戦のガリポリの戦いで戦死し、後にこのことを題材に「国防大臣の電報」という作品が制作された。

1941年にダニーデンの自宅で亡くなった。

作品

脚注

参考文献




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