正法寺古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 10:28 UTC 版)
墳形と規模
概要
2001・2002年度の調査結果からすると、墳丘は整った3段築成の前方後円墳だが、前方部前端ラインが墳丘主軸に対して斜交するとする(ただし文献では墳丘主軸の設定定義の説明がなされていない)。前方部側辺の平面形も左右対称になっていない[3]。
墳丘規模は以下の通り。全長94m(後円部東側墳裾~前方部北西角)、90m(主軸線上)、85m(後円部東側墳裾~前方部南西角)。後円部径65.5m。くびれ部幅44m。前方部幅56.5m。
高さに関して、文献では明確な数値を出していないが、後円部頂標高28.8m、前方部頂標高26.6mに対し、1段目葺石基底石(墳裾)の標高が18.9~20.4m[3]としており、それらの引き算から求めることができる。
前方部が左右対称とならず、前方部前面が墳丘主軸線に直行しない理由は、自然の丘陵の地形を活かしつつ可能な限り大きく墳丘を築いた結果と考えられる[3]、とする。
前方部後円部ともに墳丘の2段目まではほぼ地山を削り出して形成、3段目の大半は盛土形成である[3]、とする。
島状遺構
南側くびれ部で島状遺構と考えられるコーナー部を確認。本来は方形だったと推定できるとする。
くびれ部と島状遺構の間の埋土中から、集中して円筒埴輪が出土。
正法寺古墳の島状遺構はくびれ部に位置しており、神戸市五色塚古墳の島状遺構の形状に近いとする。正法寺古墳の島状遺構の位置は同時期の古墳の造り出しの位置と共通し、祭祀行為の性格は不明ながら墳丘と隔された特別の空間として造り出しと同様の性格を有していたと考えられる[3]、とする。
- ^ a b c 「第1章 周辺環境と調査の経緯」『史跡正法寺古墳』吉良町教育委員会(2005年)
- ^ 町村合併10周年記念町誌編集委員会『吉良町誌』愛知県幡豆郡吉良町(1965年)
- ^ a b c d e f g h i 「第5章 考察」『史跡正法寺古墳』吉良町教育委員会(2005年)
- ^ 小栗鐵次郎「幡豆郡吉田町大字乙川正法寺古墳」『愛知県史蹟名勝天然記念物調査報告第十三』愛知県(1935年)
- ^ 加藤安信・松井直樹ほか『中根山遺跡』吉良町教育委員会(1989年)
- ^ 「第2章 墳丘の発掘調査」『史跡正法寺古墳』吉良町教育委員会(2005年)
- ^ 「第3章 出土遺物」『史跡正法寺古墳』吉良町教育委員会(2005年)
- ^ a b c 愛知県史編さん委員会編集『愛知県史 資料編3』愛知県(2005年)
- ^ 河内一浩「中期古墳の埴輪」『季刊考古学 第79号』雄山閣(2002年)など
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