小菅神社 (飯山市) 小菅神社神域内の文化財

小菅神社 (飯山市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/19 15:06 UTC 版)

小菅神社神域内の文化財

小菅山は、自然信仰の時代には水分神が祀られ、後に熊野修験の手によって霊場として確立された。そのため、熊野社が各所に見られる。来由記などに記されたところによれば、神社結界地となっていたのは、大倉崎口(現在の飯山市大字常盤)、関沢口、前坂口、神戸口の4箇所で、それぞれ鳥居が設けられており、神域への入口となっていた。この結界内部には、小菅神社に由縁ある社寺・史跡・民俗が今日に伝えられている。

奥社本殿(重要文化財)
小菅神社の本殿。大聖院跡地護摩堂から続く参道をぬけ、溶岩性の岩石が露出する急峻な登山道を進んだ、標高820m付近にある。天正19年(1592年)の修復記録があり、棟札によれば小野源之丞政高なる大工が修造にあたったとある。小菅神社の祭神8柱を祀る。
屋根は入母屋造、妻入、銅板葺き。桁行・梁間とも4間(「間」は柱間の数を指す)。柱間を正側面とも偶数とする(中央に柱が来る)のは、社寺建築には珍しい。組物は出三斗(でみつと)、軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)とする。東・南・西の3面に切目縁をめぐらし、東面は後方3間分に下屋(げや)を設ける。北面は岩窟が迫っている。南面は斜面に張り出した懸造とし、西側に階段をつけて西の縁から社殿に上るようになっている。建物は天文年間(1532 - 1554年)の建立とみられ、内部に安置される禅宗様の宮殿(くうでん)2基は永正5年(1508年)建立の記録がある。中世にさかのぼる修験道建築の稀少な遺例として貴重である。[8]
仁王門(旧元隆寺西大門)
里宮
菩提院
山号は小菅山。桜本坊。元隆寺別当大聖院の堂舎。享保年間に法印俊栄によって中興開基されたと伝えられる、真言宗寺院。神仏分離以後、大聖院別当は神職となり、仏教に関する什器は菩提院に移されている。信濃三十三箇所霊場第十九番札所。
護摩堂
小菅山元隆寺別当大聖院の跡地。現存する堂舎は、寛延3年(1750年)に再建されたもの。
小菅神社杉並木
奥院参道沿いに続く杉並木。江戸時代の造営で、樹齢300年前後の杉が立ち並ぶ。
奥社参道磐座群
奥社参道沿いにある奇岩群。上杉謙信が武田軍の追手から身を隠したという隠れ石、弘法大師が参拝の折りに休憩をとり、錫杖の跡をのこしたとされる御座石など、多くの名石がある。
追分石像群
長野県道38号飯山野沢温泉線から小菅山方面へ進むと、水田道路脇にある石像群。かつて元隆寺西大門の仁王門付近にあった石碑などが庚申塔などとともに集められたもの。
神戸の大銀杏
神戸(ごうど)集落の参道入口付近にあるイチョウの古木。落ち葉で積雪を占う雪例樹(ゆきだめしぎ)と呼ばれ、長野県内でもっとも幹が太いという。

以上に紹介していないものを含め、小菅神社神域内の文化財について、表4を参照されたい。

表4 小菅神社神域内の文化財[9][10]
名称 年代 種別 指定年月日
小菅神社奥社本殿 1棟
附:宮殿(くうでん) 2基
室町時代中期 重要文化財(国指定) 1964.5.26
小菅の柱松行事 重要無形民俗文化財(国指定) 2011. 3. 9
桐竹鳳凰文透彫奥社脇立 2面 桃山時代 県宝(彫刻) 1964.8.20
板絵着色観音三十三身図 15面 室町時代初期 県宝(絵画) 1964.8.20
絹本著色両界曼荼羅図(菩提院) 室町時代初期 県宝(絵画) 2002.3.28
神戸のイチョウ 県天然記念物 1962.9.27
小菅神社奥社参道杉並木 江戸時代 県天然記念物 1974.3.22
阿弥陀如来立像 室町時代初期 市有形文化財 1983.3.23
小菅神社奉納絵馬「黒神馬・白神馬」 1606年(慶長11年) 市有形文化財 1997. 1.20
小菅神社奉納額絵「花鳥の図」 市有形文化財 1997.1.20
小菅神社木造馬頭観世音菩薩坐像 平安時代後期 市有形文化財 1997.1.20
紙本著色涅槃・極楽・地獄絵図(菩提院) 江戸時代 市有形文化財 2000.3.27
紙本著色十六善神画像(菩提院) 江戸時代前期 市有形文化財 2000.3.27
阿弥陀三尊像 1732年(享保17年) 市有形文化財 2001.11.29
万仏山観音石像及び本尊 江戸時代 市有形民俗文化財 1986.1.24
小菅大聖院跡及び奥社参道 室町時代~明治時代 市史跡 2003.1.15
小菅のイトザクラ 市天然記念物 1997.1.20
小菅のヤマグワ 市天然記念物 1998.5.18
犬飼神社のカツラ 市天然記念物 2001.5.30

  1. ^ 信州大学・飯山市小菅研究グループ[2005: 73-74]。
  2. ^ a b こうした隆盛期の小菅山を描いた絵図として、1566年永禄9年)の銘がある元隆寺之図が知られている。この図では、上之院19坊、中之院19坊、下之院11坊をかぞえ、これらを統括する本坊大聖院には19の末院があったとされている。だが、既述の1561年(永禄4年)の川中島の戦いの兵難とこの絵図は年代が矛盾している。また、僧坊の名や、石垣の位置など年代と符号せず、疑問とすべき点も多い。こうしたことから、この絵図は、小菅の繁栄を示すため、近世になってから遡及的に描かれたものである可能性があり[信州大学・飯山市小菅研究グループ編 2005:76-77]、この絵図の史料としての信憑性には留保が必要である。
  3. ^ 『信濃史料』第7巻。
  4. ^ 『信濃史料』第8巻。
  5. ^ 『信濃史料』第13巻。
  6. ^ 「小菅神社所蔵棟札銘写」および「小菅神社所蔵鉄製鰐口」、いずれも『信濃史料』第17巻所収。
  7. ^ 信州大学・飯山市小菅研究グループ[2005: 78-79]。
  8. ^ 文化庁監修『解説版新指定重要文化財 11 建造物I』(毎日新聞社、1981)、p.74
  9. ^ 飯山市文化財編纂委員会[2002: 88-133]。
  10. ^ 信州の文化財(公益財団法人八十二文化財団)


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