大奥
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併せて、将軍以外の男性では特例で御典医のみ健康管理のために大奥への立ち入りを許された。その他の男性は全て大奥の出入り口の一つ・七つ口から立入厳禁となる[1]。一般に大奥という表現は狭い意味では江戸城本丸大奥のみを指すが、広い意味では西丸大奥・二丸大奥も含む[2]。江戸時代の大名家でも家によっては奥向を大奥と呼んでいた[注釈 1][3]。
本項では、江戸城大奥について述べる。
注釈
- ^ 東海道二川宿の「御休泊記録」には、薩摩藩の奥女中を「薩州奥女中」や「薩州大奥女中」などと記している。一説によれば、中奥あるいはそれに類する空間が存在する場合、それと区分するために「大奥」という名称が用いられたと唱えられている。
- ^ 表と奥の概念は公家の館が規範になっている。儀礼や対面など〈晴〉の場である寝殿が「表」、日常生活である〈褻〉の場としての常御殿が「奥」に対応する。この区分は足利将軍の邸宅である花の御所や豊臣秀吉の大坂城で確認されている[4]。
- ^ 静寛院宮の使者として京都に派遣された土御門藤子は、謝罪の実があるならば徳川家を存続させる可能性もあるという朝廷の内意を引き出している。
- ^ 天璋院の嘆願書を受け取った西郷隆盛は、嘆願を受け入れる旨の連絡を天璋院に入れている。
- ^ 文久3年(1863年)の火災で本丸は焼失して再建されなかったため、明治維新まで西丸が本丸の代わりとして用いられた。大奥も西丸に増築されたという。
- ^ 天璋院は、家茂将軍就任後も本丸御殿に留まり、和宮降嫁後もしばらくは本丸御殿に住んでいたと考えられる。
- ^ これらの呼称は時代によって異なる。
- ^ 文書における桂昌院の名前は御台所・鷹司信子よりも先に銘記されており、官位面でも信子より上であった。
- ^ 「側室」は武家諸法度で大名の一夫一妻制が定められた後に成立した概念で、複数の妻が公認されていた家康の時代に遡らせるのは不適切とする福田千鶴の説もある(家康の側室とされているうちの何人かは正室と同格である「別妻」であった可能性が高い)。
- ^ 自身の生前には正式な側室として認められていない。
- ^ もっとも、江戸城以外の奥向には取締という役名が存在した可能性がある。畑尚子著『徳川政権下の大奥と奥女中』では、水野家老女・千代山が万延元年に奥向取締になったことが述べられている[14]。
- ^ 姉小路については、将軍家慶とのただならぬ関係を主張する説も存在している[要出典]。
- ^ このことは、大奥老女の人事異動が将軍の代替わりにほとんど影響されていないことからも明らかである。
出典
- ^ “将軍家のプライベートサロン!江戸時代の大奥の構造はどのようになっていたの?”. Japaaan. LINE NEWS (2019年7月15日). 2019年7月15日閲覧。
- ^ 徳川「大奥」事典, p. 4.
- ^ 畑尚子 2009, pp. 21–23.
- ^ 新人物往来社『歴史読本』2011年3月号P140-146「信長・秀吉の奥と将軍の大奥」
- ^ 徳川「大奥」事典, pp. 7–8.
- ^ 新人物往来社『歴史読本』2011年3月号 P128-138「江戸城大奥の基礎はいつ作られたのか」
- ^ 知らなかった!? 大奥の秘密, p. 26.
- ^ 徳川「大奥」事典, pp. 9–10.
- ^ 畑尚子 2009, pp. 31–32.
- ^ 徳川「大奥」事典, pp. 95–97.
- ^ 徳川「大奥」事典, p. 101.
- ^ 畑尚子 2009, p. 183.
- ^ “江戸城 大奥御殿向惣絵図(色彩図)”. 2011年2月19日閲覧。 : 日本建築学会図書館・妻木文庫蔵。
- ^ 畑尚子 2009, p. 221.
- ^ 徳川「大奥」事典, pp. 116–117.
- ^ 『鶴姫君様御婚礼御用』『鶴姫様御婚礼書物』(国立公文書館所蔵)
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