八七会 概要

八七会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/04 15:00 UTC 版)

概要

豊川海軍工廠は日本海軍直属の巨大工場で、銃器や弾丸、信管などを製造していた。第二次世界大戦当時「東洋一の兵器工場」と称されたが、終戦間際の1945年(昭和20年)8月7日、アメリカ軍による空襲で甚大な被害を受けた。工員や職員のほか、勤労動員されていた中学生・女学生・国民学校児童、工廠周辺の一般人など、2,500名以上が犠牲になり、壊滅した。

八七会はその生存者の会として1957年(昭和32年)に結成された。結成以来、慰霊的な活動、語り部的な活動、記録や展示などの活動を地道に続けてきた。会員の高齢化と役員後継者の不足から、2020年(令和2年)8月7日の慰霊祭をもって活動を終了した。

結成経緯

終戦間もなく、豊川空襲の遺族たちによって豊川市新道町に墓や供養塔が建てられた(通称「諏訪墓地」)。1946年(昭和21年)9月23日には豊川稲荷の北西の地に豊川海軍工廠戦没者の供養塔(略称「供養塔」)が報国団によって建立され、台座には犠牲者一人一人の氏名が刻まれた。以後、供養の中心は自然に諏訪墓地から供養塔に移っていった。

一方、豊川海軍工廠共済病院時代から看護婦が中心となって結成していた「みどり会」が、豊川稲荷妙厳寺本堂で七回忌までの供養を行ってきた。十三回忌が近づくにつれ、工廠の全従業員で供養するように拡大していきたという声が出て、元医務部長であった福本元軍医大佐を初代会長にして「八七会」が結成されることとなった[2]

1957年(昭和32年)8月7日の十三回忌には遺族を招待、供養塔前に約3,000名の遺族が集まり盛大な供養が行われ、これを契機に遺族への連絡や、慰霊祭を行う民間団体として、全従業員からなる八七会が正式に結成され[3]、以後遺族を招待して供養塔前での慰霊祭が八七会の行事となった[4]

歴代会長

  • 初代 福本正栄 1957年(昭和32年)8月7日~不明
  • 第2代 磯部鷹三[5] 不明~不明
    • 元豊川海軍共済病院医務部員[6]
    • 1963年(昭和38年)には『ああ豊川女子挺身隊』(辻豊次、甲陽書房)に八七会会長として序文を寄せている[7]
  • 第3代 神谷里司 不明~不明
    • 元豊川海軍工廠工員養成所教官[8]
    • 1979年(昭和54年)3月21日の豊養会の友魂ノ碑除幕式に八七会会長として出席[9]
  • 第4代 柴田司郎 不明~1984年(昭和59年)
    • 元豊川海軍共済病院事務長[6]
    • 1981年(昭和56年)には会長職にあり、後継を心配している。
    • 1983年(昭和58年)の総会で病気により辞意を表明。[5]
  • 第5代 彦坂実 1984年(昭和59年)~2009年(平成21年)6月
    • 元豊川海軍工廠工員養成所第4期生
    • 彦坂の死去により会長交替。
  • 第6代 大石辰己 2009年(平成21年)6月~2021年(令和元年)9月
    • 元豊川海軍工廠工員養成所第5期生(機銃部第二機銃工場)[8]
    • 最後の会長。会長職のまま死去。

  1. ^ “戦後75年:豊川海軍工廠空襲 生存者の会「八七会」活動終了 供養塔、豊川稲荷に託す 「記憶も後世に伝えて」 /愛知”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2020年8月6日). オリジナルの2020年9月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200928232517/https://mainichi.jp/articles/20200806/ddl/k23/040/138000c 2023年12月4日閲覧。 
  2. ^ a b c d e f g h 八七会『「豊川海軍工廠の記録 陸に沈んだ兵器工場」』八七会、1995年8月7日。 
  3. ^ a b c d 八七会刊「八七会の思い出」リーフレット
  4. ^ 総務省> 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 豊川市における戦災の状況(愛知県)
  5. ^ a b 彦坂実『八七会六十年のあゆみ』八七会、2005-8-7 ※12頁の簡易冊子。 
  6. ^ a b c 大島信雄『追補 豊川海軍共済病院の記録』大島信雄、1984年8月7日。 
  7. ^ 辻豊次 編『ああ豊川女子挺身隊 : 8.7豊川海軍工廠の悲劇』甲陽書房、1963年。 
  8. ^ a b 豊廠五期会編『あゝ吾れら見習健男児』五期会、1982年11月7日。 
  9. ^ 豊田英男編『友魂』豊養会、1979年8月7日。 
  10. ^ “豊川工廠大空襲 死者3000人超 地元医師が独自調査 従来の『2500人以上』説塗り替え 民間の犠牲 次々判明”. 中日新聞. (2005年8月13日) 
  11. ^ a b “誕生から壊滅…戦後処理まで 『豊川海軍工廠の記録』出版 空襲50年を機に生存者”. 中日新聞. (1995年8月3日) 
  12. ^ a b “舞踏松井さんらに豊川市の文化奨励賞”. 中日新聞. (1996年2月24日) 
  13. ^ “海軍工廠の本を復刊 豊川 八七会、戦後の歩み加筆”. 中日新聞. (2015年6月29日) 
  14. ^ 豊川市教育委員会「豊川海軍工廠関連年表」『豊川海軍工廠平和後年内残存遺構保存整備事業報告書』、豊川市教育委員会、2019年3月。 
  15. ^ 豊川公園「平和の像由来記」碑文参照
  16. ^ “豊川海軍工廠の戦没者安らかに、慰霊碑を除幕”. 中日新聞. (1992年12月31日) 
  17. ^ “通風筒”. 中日新聞. (1992年5月12日) 
  18. ^ a b “戦後60年 8・7大空襲 2600人魏税 豊川海軍工廠慰霊祭 今年限り 高齢化で継続困難 取材団体苦渋の決断”. 中日新聞. (2005年8月5日) 
  19. ^ 豊川市ホームページ:豊川海軍工廠平和公園開園 
  20. ^ 豊川市ホームページ:市制施行76周年記念 被表彰者等一覧 
  21. ^ 豊川市ホームページ:市制施行77周年記念 被表彰者等一覧 





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