ヴィジャヤナガル王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/28 10:04 UTC 版)
サールヴァ朝
危機とその脱却
1446年、デーヴァ・ラーヤ2世が死ぬと、デーヴァ・ラーヤ3世やヴィルーパークシャ2世といった無能な王が続き、ヴィジャヤナガル王国の国内ではタミル地方中部をはじめ反乱が相次ぎ、国内は混乱した。
一方でバフマニー朝が有能な宰相マフムード・ガーワーンにより事実上の全盛期を迎えて、ヴィジャヤナガル王国はカーンチープラムまで攻め込まれ、ゴアのみならず、ライチュール地方なども奪われた[6]。
また、オリッサの新興勢力ガジャパティ朝の遠征軍が王国の奥深くまで攻め込み、 1463年にその遠征軍がカーヴェーリ川にまで到達し、ティルチラーッパッリにまで至った[6]。
15世紀後半、ヴィジャヤナガル王国は危機に陥ったが、この危機を救ったのはタミル地方北部を統治していたサールヴァ家のサールヴァ・ナラシンハであった[6]。サールヴァ・ナラシンハは、トゥルヴァ家のトゥルヴァ・イーシュヴァラ・ナーヤカ、トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカ父子に助けられて各地の反乱を鎮圧し、ガジャパティ朝、バフマニー朝の勢力を撃退して、その侵攻を食い止めた。
そして、1486年にサールヴァ・ナラシンハは、ザンガマ朝最後の王プラウダ・ラーヤから王位を簒奪して王となり、サールヴァ朝を起こした[6]。
しかし、1491年にサールヴァ・ナラシンハが没すると、トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカがその幼少の息子ティンマ・ブーパーラおよびインマディ・ナラシンハ・ラーヤの摂政となって、王国の実権を握った[5]。
なお、1480年代後半から、隣国バフマニー朝では各地の太守が独立の動き見せ、1490年にはビジャープル王国、アフマドナガル王国、ベラール王国が成立し、バフマニー朝のデカンを中心とするその広大な版図は解体されつつあった。
トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカは簒奪者とならず幼王の摂政として、分裂し衰退するバフマニー朝よりライチュール地方の奪還を試みた[6]。また、南方に遠征して反乱を鎮圧するなど、ヴィジャヤナガル王国の領土回復に努めた[6]。
- ^ ただし、アーラヴィードゥ朝は、ペヌコンダ、チャンドラギリ、ヴェールールに首都をおいたために除く場合もある
- ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.124
- ^ a b c d e 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.149
- ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、pp.150-151
- ^ a b c 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.150
- ^ a b c d e f g h 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.151
- ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.152
- ^ a b c d 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.153
- ^ a b c d e f g 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.154
- ^ a b c 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.155
- ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p.36
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