ミハエル・シューマッハ
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ライバルとの関係
ミカ・ハッキネン
ミカ・ハッキネンとは1984年にフランスのラヴァルで開催されたカート世界選手権で初対決している。ハッキネンはスタートが悪かったうえに燃料系のトラブルを抱え3番手で頑張っていたが、イタリア人のロベルト・コルチアゴに接触されてスピンしてしまい、シューマッハがこのレースで優勝した。このレースにはその後のCARTで走っていたポール・トレーシーも出場していた[99]。
ハッキネンは「出会った最初から、ミハエルは強力なライバルだと思ってきた。才能、スピード、モチベーションといったチャンピオンに必要な要素を全て兼ね備えた男だ。侮ることのできないドライバーであり、マシンドライブの腕前もチームとのやりとりも、偉大なドライバーと呼ぶにふさわしいと思っているよ。彼の性格を好む人はことのほか好むけど、そうでない人はむしろ徹底的に嫌いになるみたいだね。彼とワールドチャンピオンシップを競うようになってからは、できることならこんな速い奴が相手でなければいいと思ったけど、そうなってしまった以上は仕方がない。ミハエルとはフェアプレーに終始したし、互いに尊敬の念を失うこともなかった。彼のドライビングは危険だと言われるけど、僕たちのバトルはいつも自制していてフェアだった。1998年の第10戦オーストリアGP、第15戦ルクセンブルクGPでは長い間、テール・トゥー・ノーズ、ホイール・トゥ・ホイールの状態だったけど、ミハエルは全く危険なことなどしなかった。確かに彼はたとえ1インチだって譲らない情け容赦ない奴だが、それがトップドライバーというものだろう。他のドライバーの仕事を楽にするために、高給をもらっているわけじゃない。だから、自分自身との闘いを別にすれば、どんなレースでもまずミハエルに打ち勝たなければ、勝利はあり得ないこともわかっている[100][101][102]」と語っている。
一方で、シューマッハも「ミカのことはとても高く評価しているし、尊敬している。彼とのバトルはコース上でいつも限界ギリギリで戦っていた。他のドライバーとはレース後も争いが続いてしまうことがあったりしたけど、ミカとのバトルは違った。彼はとても優秀で、誠実で、卓越したドライバーだった[103]」と評し、自身の引退会見でも「過去16年のF1シーズンを振り返って、もっともタフな競争相手やライバルは誰を思い浮かべるか」の問いに、「ミカとは最初から最後まで素晴らしいバトルをしてきた。常に高いレベルの争いで、非道な部分がなく、純粋にレースをしていた[104]」と答えている。
アイルトン・セナ
デビュー当時のシューマッハは権威に楯突く生意気な若者とみなされ、アイルトン・セナら大物ドライバー達との間に摩擦があった[105]。1992年の第3戦ブラジルGPではペースの上がらないアイルトン・セナに前を塞がれ、レース後「アイルトンの行為はチャンピオンに値しない[106]」と批判。第8戦フランスGPのオープニングラップではセナに追突して、レース中断中にセナから説教された。その後ホッケンハイムリンクで行われたテスト走行でも、進路妨害をしたとしてセナと乱闘寸前になった。それでも、互いに主張しあうことでふたりの関係は良好になっていったと『F1レーシング』は述べている[105]。
1994年サンマリノGPでは、眼前でセナがコースアウトして事故死する場面に遭遇。至近距離からの目撃者として、FIAと警察の事情聴取を受けた。サンパウロで行われたセナの葬儀に参列しなかったことを批判されたが、それは何者かより「ブラジルに来たら殺す」という殺害予告を受けていたためであった。フジテレビのインタビューで「セナは僕の憧れだった」と語り、タイトル決定後の記者会見では「チャンピオンを何としても獲得して、アイルトンに捧げようと誓っていた」と語った[107]。
2000年イタリアGPのレース後会見では「これで勝ち星(41勝)がセナと並びましたね。今日の勝利はあなたにとって大きな意味を持つものですか」と聞かれ、「そうだね。僕にとってはすごく大きいよ」と語った後、一呼吸おいてから「ごめん…」と言葉を発した後、突然号泣し始めて周囲を驚かせた[108]。テレビ中継後の会見で再び同じ質問が出されると「そんなの言わなくたってわかるだろ。ここはイタリアだよ。そして僕はここ数戦ずっといい結果が残せていなかった。でも、今日やっと復活したんだ。この41勝には多くの人々の支えがあったんだ。だから、1998年に優勝したときよりもすごくうれしいんだ」と答えた[109][109]。
また、セナとシューマッハは、特に偉大な足跡と印象を残したドライバーとして、後年での比較論争でもよくテーマにあがり、「史上においてのライバル」という印象も併せ持っている。しかしながら、キャリアハイが交差する時期での遭遇でもあったため、厳密な能力、技術の比較は難しいとされている。[要出典]
デイモン・ヒル
デイモン・ヒルに対しては自分と同レベルの才能を持っていると考えておらず、そのヒルが自分より優れたマシンをドライブすることが気に入らなかったと指摘する声もある[100]。1995年の第8戦イギリスGPの接触では「ヒルは本来あそこにいるはずのないアマチュアだ」と言い、第11戦ベルギーGPではレース後の記者会見で公然とヒルを嘲り、第12戦イタリアGPの接触でもヒルのコクピットに歩み寄り、彼のドライビングに対する厳しい見解を告げたことで両者の嫌悪は一層深まった[100]。シューマッハは「これら2件(イギリスGPとイタリアGP)とも前年の最終戦オーストラリアと同様に、わざとマシンをぶつけて遠慮しないヒルのドライビングの典型だ」と語った[100]。一方のヒルは「公衆の面前でここまで侮辱されて、なぜ反駁しないのか」と尋ねられ「(反論することは)自分のスタイルではないからだ」とだけ答えた[100]。『F1グランプリ特集』は2000年に、「シューマッハは実はこのヒルのスタイルこそが気に入らず、ヒルには才能もなければガッツもないというのが、シューマッハの下した最終結論だった」と主張している[100]。
ジャック・ヴィルヌーヴ
ジャック・ヴィルヌーヴについては侮ることができないライバルであることを認めており、「2000年のライバルは?」という質問に対し、「ミカ・ハッキネン、ハインツ・ハラルド・フレンツェン、ヴィルヌーヴ」の三人を挙げている[100]。また、2001年のインタビューでは「ヴィルヌーブはいつも僕を攻撃するけど、僕はお返しをしようとは思わないよ。だから僕らが友達になることはあり得ない。全く別の人種なんだから。だけど、ドライバーとしての彼は素晴らしく速い。予選でもレースでもね[110]」と語っている。
フェルナンド・アロンソ
タイトル争いをする前にはフェルナンド・アロンソと一緒にサッカーを楽しむなど良好な関係を続け、ドライバーとしての速さも認めていた。しかし既述の通り、2006年のモナコGPの予選以降は、タイトル争いをしていることもあり、互いに批判し合うこともあった。スペインのラジオにおいて、シューマッハを「F1史上最もスポーツマン精神に欠けるチャンピオン」と酷評していた[111]。それでもシューマッハが引退を発表した時にアロンソは「彼は、F1の歴史においては比類のない存在だった。きっと、彼の記録は誰にも破れないはずだ。彼とのレースは非常に楽しかったよ。僕は彼ほど長く現役を続けることはないと思う[104]」とコメントした。またアロンソが2015年に、最も厳しいライバルは誰か?という質問をされた際には、シューマッハの名前を回答している[112]。
ニコ・ロズベルグ
ライバルという意味とは異なるが、シューマッハの最後のチームメイトとなったニコ・ロズベルグからはいくつかのコメントが残っている。2010年からワークスチームとして参戦したメルセデスのドライバーとして起用された際、当時のチーム代表ロス・ブラウンから突然「ちなみに君のチームメイトはジェンソン・バトンでもニック・ハイドフェルドでもなく、ミハエル・シューマッハになるから」と電話で告げられたという。ロズベルグはそれまでの彼の経歴から、「ミハエルがチームを操ることでチーム全体が僕の敵になる、僕にはチャンスがない」と思ったといい、「そもそも、彼のペースについていけるかどうかも分からなかった。彼は歴史に残るドライバーだし、僕にチャンスがあるのか?それを聞いた時はクレイジーな瞬間だったよ」と語った。案の定、メルセデス加入前に表彰台を2度しか獲得していなかったロズベルグが、シューマッハのいるチームで一定の地位を築くのには時間がかかったようで、「ミハエルがチームにやってきた時、彼は“神”のようだった」「戦略に関するミーティングを行う時、チームは僕の戦略ですらミハエルと話し合っていた。僕がそこに座っているのにね。だから僕はそのミーティングを開いているストラテジストに相談して、それからは一緒に戦略を考えるようになった。これは僕にとって大きな影響を与えた。僕は前よりもずっと快適に感じられるようになった。最終的には僕の不屈の精神を見せつけ、僕の気持ちを伝えることで、注目してもらえるようになった」とコメントしている。
ロズベルグはまた、シューマッハが心理的な戦いを仕掛ける人間であったと語り、冗談交じりに「色んな例がある。例えばモナコのトイレでの出来事だ。ガレージにはトイレがひとつしかなかった。予選の5分前に僕は(シューマッハが入っている個室の)ドアを必死にノックした。パニックになっていたから『誰か分からないけど中にいる人は早く出てきてくれ!』と言いながらね。予選の前に用を足す必要があったんだ。彼はその中に入っていて、ただ時計を見たりしてくつろいでいた。そうすれば僕の心にストレスが溜まっていくと知っているからだ。そして彼は予選の1分前になって『おっとごめん、君が待っているとは思わなかったよ』と言う感じで出てきた。僕はその時点で完全なパニックに陥っていた」「彼はエンジニアリングルームを上半身裸で歩き回るのが好きだった。彼は自分の彫刻のようなシックスパックの腹筋を見せつけてみんなを驚かせたかったんだ」「そういう事は例を挙げるとキリがないよ」と語っている[113]。
注釈
- ^ 本人がF1デビュー当時に「マイケルと呼んでほしい」と言ったので、取材メディアではその呼称が定着している[1]。
- ^ F1デビュー直後のインタビューで、「メカニックのプロになるかゴーカートドライバーとしてどこかとプロ契約できるかはっきりしない時期に、訓練はして自動車整備のプロ資格を取った。F1で職にあぶれてもすぐ食べていけるんだ。VWビートルならバラした状態から完全に組めるよ」と述べている 夢を見ていた日々 ミハエル・シューマッハー F1グランプリ特集 9月号 119ページ ソニー・マガジンズ 1995年12月12日発行
- ^ フィアット・パンダのエンジンを搭載する小型フォーミュラカー。
- ^ この騒動を受け、FIAは契約承認委員会 (Contracts Recognition Board,CRB) を設立することになる。
- ^ マンセルは16戦9勝であり、勝率では劣る。
- ^ ただしシューマッハの通算個人記録および「コンストラクターズ」部門に関しては不問とされた。
- ^ ルールの隙をついた第9戦イギリスGPや、第7戦カナダGPと第12戦ハンガリーGPでの卓越したピットストップ作戦がある。
- ^ 2004年以前にも1994年と1995年に1992年ナイジェル・マンセルが記録した8回に並んだが2000年にミカ・ハッキネンに更新された後、2004年にシューマッハが再更新した。
- ^ ただしアスカリは、出走したレースでは9連勝している。
出典
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