マーカス・モートン 最高司法裁判所判事と州知事選挙への出馬

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マーカス・モートン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/19 09:59 UTC 版)

最高司法裁判所判事と州知事選挙への出馬

リーヴァイ・リンカーン・ジュニア、マーカスをマサチューセッツ州最高司法裁判所判事に指名したが、間もなく政敵になった

1823年、モートンはマサチューセッツ州知事評議員に選ばれ、翌年にはマサチューセッツ州副知事に選出されて、民主共和党員知事のウィリアム・ユースティスの下で仕えた。1825年2月、ユースティスが在職中に死去すると、数か月後に州知事選挙が行われるまで、モートンが知事代行を務めた[15]。1824年の選挙からは、州内の政治勢力として連邦党を事実上排除しており、元連邦党員と裕福な民主共和党員が協力して国民共和党と呼ばれることになる党を結成することになった(後のホイッグ党の前身)[16]。モートンはこの動きに同意できず(国民共和党を「貴族的」と言った)、その代わりにジャクソン風の民主主義を好み、1825年の選挙では州知事に立候補することを拒んだ。しかし、副知事には再度立候補して当選することになり、民主共和党と連邦党の連衡で候補指名され当選した州知事リーヴァイ・リンカーン・ジュニアの下に仕えた。モートンはホイッグのエリート主義と呼んだものに満足せず(1830年にはリンカーンのことを「金の貴族主義の道具」であると非難した)、副知事を辞職した[17]。リンカーンは直ぐにモートンをマサチューセッツ州最高司法裁判所陪席判事に指名した。モートンはその職を1840年まで保持することになった[18]

法の番人

モートンはマサチューセッツ州最高司法裁判所陪席判事の中で唯一の民主党員であり、その他の判事は全て連邦党員によって指名されていた。それにも拘わらず、モートンは幾つか著名な判決を書いた。「チャールズ川橋対ウォーレン橋事件」の判決を書いた。この事件の審理は結局アメリカ合衆国最高裁判所まで行くことになった。原告は、ボストンチャールズタウンとの間に1786年に建設された有料橋、チャールズ川橋の所有者であり、被告は州が1828年に認証を発行した競合する橋の所有者だった。原告は、自分たちの認証で州が川を渡すための排他的な支配権を認めていたのであり、被告に対する認証がそれに抵触するものだと主張した。最高司法裁判所の判断は2対2で分かれ、アメリカ合衆国最高裁判所で審理されるべく、差し戻された。モートンは被告有利の判決を書き、州が排他的な権利を認めることになるならば、それを明確にしておかねばならず、この件ではそれが明確でないと指摘した。この判断はアメリカ合衆国最高裁判所におけるロジャー・トーニー首席判事の1837年判決で支持された[19]

1838年、モートンは「州対ニーランド事件」で唯一の反対者となった。これは「冒涜」を問われて有罪とされた国内最後の事件だった。アブナー・ニーランドは激烈なユニバーサリスト神父だったのが、汎神論に転向した者であり、キリスト教徒が攻撃的と考える声明を出していた。第一審では有罪とされたニーランドが控訴し、高度に政治的な裁判が2度評決不能陪審に終わった後で、控訴審で有罪が支持された[20]。1836年3月、マサチューセッツ州最高司法裁判所がこの事件を審査した。ニーランドは自己弁護を行い、自分の作った声明は法によって規定されたレベルまで達していないと論じ、州法がアメリカ合衆国憲法修正第1条を侵害していると主張した[21]。首席判事のレミュエル・ショーは多数派の意見を書き、ニーランドの発言は冒涜に関する法の規定を満足していると判断し、法の解釈により州憲法で言論と信教の自由を保護していることには抵触していないと判断した[22]。モートンはその反対意見で、州憲法第2条(信教の自由)をよりリベラルに読めば、あらゆる人は「神の問題を論じ、その存在を肯定するも否定するも主張する憲法上の権利がある。ある人が法的に権利があると考えることを行うことで罰されることには同意できない」と書いていた[23]。州知事のエドワード・エヴァレットは、ニーランドに恩赦を出すことを拒み、ニーランドは60日間収監された。この事件は今日、冒涜罪に関するアメリカの事件として最大級に引用されることの多いものとなっている[23]

州知事に対する永遠の候補者

1820年代と1830年代の政治的状況は極めて流動的だった。民主党が非常に派閥化し、3つの主要なグループが党の支配権を巡って互いに争っていた。モートンの支持基盤は主に農夫、工業や造船業の労働者で構成されており、また近年移って来たばかりの移民もいた[24]。セオドア・ライマンが支配した2つ目の派閥は商人や裕福な海岸関連の人々で構成され、ホイッグ党の主張に反対していた[25]。3番目の派閥は初期に党をうまく支配していたものであり、デイビッド・ヘンショーを頭に、橋の議論の政治的な側面でジョン・クインシー・アダムズの派から分離して来たものだった[26]。ヘンショーは党を纏めあげる主要な推進者であり、一方モートンは永遠の州知事候補者となり、1828年から1843年まで毎回立候補した[12][27]。党は、モートンの友人であるジョン・カルフーンの組織化力で支持されていた。カルフーンはジョン・クインシー・アダムズとアンドリュー・ジャクソンの下でアメリカ合衆国副大統領を務めていた[28]。モートンは概して選挙運動を行わず、判事としての中立性という立場を維持することに注力していた[29]

モートンの肖像画、版画

モートンはリンカーンが州知事だった期間(1825年-1834年)の大半で、選挙ではそこそこの結果を残せなかった。これは主に国民共和党に対する反対が砕け散っており、自由橋党や反メイソン党でそれが実証されていたからだった。反メイソン党は特に1832年の選挙で民主党票のかなりの数を吸い上げていた[30][31]。国民共和党と民主党の双方が反メイソン党を解党に追い込もうとした試みもあったが、どちらも成功しなかった。モートンはやや反メイソンに傾いていたが、ヘンショーはフリーメイソンであり、モートンは反メイソン党が選挙でそこそこの結果を残したにも拘わらず、その潜在的な力を認識していなかった。その結果、民主党は国民共和党の候補者を選挙で破るだけの力に欠けていた[32]。民主党は1832年と1833年も破れた。労働者の党が、大政党に労働問題に関心がないことを攻撃して支持を引き出していた[33]。モートンは繰り返し落選したことでかなり失望してきており、1832年には知事選から降りることも検討した。ヘンショーがモートンを説得して戦い続けさせた[34]。1831年、モートンは友人のカルフーンが無効化を支持したことで袂を分かった。それはカルフーンが奴隷制度を支持しているからだと考えた。このこともマサチューセッツ民主党の崩壊に繋がった。ヘンショーはカルフーンと南部民主党の側に就いた[35]

1839年以前にモートンが善戦したのは1833年の選挙であり、リンカーンが再選を辞退したときだった。ウースターの下院議員ジョン・デイビス(国民共和党として出馬)やジョン・クインシー・アダムズ(反メイソン党として出馬)を主要な対抗馬とし、労働者の党の候補者を含めて4人の争いとなったが、どの候補者も必要な過半数を得られなかった。州議会は、アダムズがデイビスのために退き下がった後で、得票数が多かったデイビスを選んだ[36]

ジョージ・バンクロフト、 歴史家、マサチューセッツ民主党の組織者

1830年代後半までに奴隷制度廃止運動家が州内でも政治的な力を持つに至った。ホイッグ党もモートンを含めた民主党も他の政治的な目標を追求する中でこの問題を避けていたが、奴隷制度廃止運動家は選挙に出る候補者からこの問題に関する公式の声明を常に求めるようになった[37]。モートンは個人的に奴隷制度に反対する者として知られており、奴隷制度に関する質問には回答が揺れ動いていたにも拘わらず、1837年と1838年の選挙では得票を伸ばした[38]。これらの選挙での対抗馬はエドワード・エヴァレットであり、彼も奴隷制度に反対したが、1826年に奴隷所有者の権利に同調する発言をしたことがあり、それがエヴァレットを攻撃する材料に使われていた[39]。民主党内のモートンの派閥も歴史家のジョージ・バンクロフトの組織力で力を得ており、モートンが推進する動きが党の低いレベルの指導者が選ばれる方法を変えることになった[40]。デイビッド・ヘンショーは1837年にボストン港の税徴収官という地位に就くために政治的な要職からは引退したので、この貴重な庇護者と言う地位を巡って党内闘争を始めさせた。モートンはその後継者の候補の1人だったが、最終的に辞退し、ジョージ・バンクロフトを推薦した[41][42]。バンクロフトは州の西部の出身であり、民主党に労働者からの支持を惹きつけることになった[43]


  1. ^ a b c d Assonet Village Improvement Society, p. 157
  2. ^ a b Swackhamer, p. 384
  3. ^ Swackhamer, p. 385
  4. ^ Earle, p. 63; Earle incorrectly locates Chaddock in Rochester, New York. (Leonard, p. 82 establishes Chaddock's location.)
  5. ^ Earle, pp. 63–64
  6. ^ Emery, p. 62
  7. ^ a b c d Earle, p. 64
  8. ^ Swackhamer, p. 386
  9. ^ Swackhamer, p. 387
  10. ^ a b c Swackhamer, p. 389
  11. ^ Poore, p. 545
  12. ^ a b Earle, p. 62
  13. ^ Earle, pp. 77–78
  14. ^ Larson, p. 954
  15. ^ Swackhamer, p. 390
  16. ^ Earle, p. 66
  17. ^ Darling, pp. 45–47, 76
  18. ^ Swackhamer, pp. 390, 392
  19. ^ Johnson, pp. 344–348
  20. ^ Levy, pp. 414–417
  21. ^ Levy, pp. 417–419
  22. ^ Levy, p. 421
  23. ^ a b Levy, p. 423
  24. ^ Darling, p. 98
  25. ^ Hart, p. 4:80
  26. ^ Darling, pp. 52–56
  27. ^ Darling, p. 83
  28. ^ Earle, p. 68
  29. ^ Swackhamer, p. 392
  30. ^ Formisano, p. 104
  31. ^ Darling, p. 104
  32. ^ Darling, pp. 95–98
  33. ^ Darling, pp. 99–102, 113
  34. ^ Darling, p. 101
  35. ^ Earle, pp. 69–70
  36. ^ Darling, pp. 110–118
  37. ^ Earle, pp. 72–73
  38. ^ Earle, pp. 73–74
  39. ^ Frothingham, pp. 106–108
  40. ^ MacAllister, pp. 201–203, 216–230
  41. ^ Handlin, pp. 160–166
  42. ^ Hart, p. 4:87
  43. ^ Hart, p. 4:86
  44. ^ Hart, pp. 4:88
  45. ^ Roe, p. 544
  46. ^ Frothingham, p. 153
  47. ^ Earle, p. 74
  48. ^ Handlin, p. 177
  49. ^ Holt, p. 82
  50. ^ Earle, p. 73
  51. ^ Hart, pp. 4:88–89
  52. ^ Earle, p. 75
  53. ^ Handlin, p. 186
  54. ^ Handlin, pp. 187–188
  55. ^ Handlin, p. 188
  56. ^ Hart, p. 4:93
  57. ^ a b Hart, p. 4:94
  58. ^ Handlin, pp. 194–196
  59. ^ Handlin, p. 203
  60. ^ Earle, p. 81
  61. ^ Hart, pp. 4:475–479
  62. ^ Earle, pp. 81–82
  63. ^ Larson, p. 955
  64. ^ a b Emery, p. 48
  65. ^ Viens, Kate (2000年9月29日). “City's hospital began as former governor's home”. The Taunton Gazette 


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