フアン・ポンセ・デ・レオン 処女航海とフロリダの発見

フアン・ポンセ・デ・レオン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/06 10:19 UTC 版)

処女航海とフロリダの発見

1513年、ポンセ・デ・レオンは自費で3つの船を用意し、発見と征服の航海へ出た。同年3月27日、彼は島を見つけたが、上陸せずに航海を続けた。4月2日に、彼は新しく「発見した」土地の東岸に上陸する。この土地が、現在のフロリダ州にある北東の海岸のどこかではないかと議論されている場所である。ポンセ・デ・レオンはこの土地を「ラ・フロリダ」とした。「花でいっぱいの」という意味を持つこのラ・フロリダという名を付けたのは、ポンセ・デ・レオンが現地で咲き誇る植物を見たためであるという理由と、彼が上陸した時期はちょうどスペインで復活祭(パスクア・フロリダ、花の過越祭)中であったからという2つの理由がある。フロリダではこの出来事が起源となり、実際にパスクア・フロリダ・デイとして4月2日が祝日になっている。

ポンセ・デ・レオンはその後フロリダの海岸を沿って南へ航海を続け、発見した川を海図に書き取り、フロリダ・キーズを渡ってフロリダの西岸からロマーノ岬へ向かった。それから彼は南のハバナを訪れ、次にそこから北側のフロリダへ再び戻り、プエルトリコへ戻る前にチェケスタ(ビスケーン・ベイ)に停泊している。

フロリダで1513年にスペイン語を話せるネイティブ・アメリカンの人々と、最低でも1人は出くわしているはずと考えられていることから、ポンセ・デ・レオンはフロリダに到達した最初のヨーロッパ人ではないという意見もある。

スペインへの帰還

1514年、ポンセ・デ・レオンはスペインへ戻り、グアドループカリブ族の支配と、フロリダの島々を植民地とする職権が与えられた。しかし、翌1515年に行われた、彼のグアドループへの遠征は失敗に終わり、プエルトリコへ戻って1521年まで滞在した。

フロリダへ最後の遠征

1521年、ポンセ・デ・レオンは2隻の船で、植民地を建設するための遠征隊を組織した。これらは牧師や農夫・職人を含む200人の乗組員、50頭の馬と飼いならされた他の動物、そして農機具で構成されていた。遠征隊はカローサハッチー川(Caloosahatchee River)またはシャーロット湾(Charlotte Harbor)付近の、フロリダ南西岸に上陸した。しかし、植民地開拓者達は到着するなりすぐにネイティブ・アメリカンのカルーサ族に襲撃され、ポンセ・デ・レオンは肩に毒矢を受けて負傷した。この毒矢に使われていたのは、マンチニールの樹液から得られた毒で、この襲撃の後、ポンセ・デ・レオンと彼の植民者達はハバナへ向かうも、彼はキューバでその怪我により死亡した[1]。彼の墓はプエルトリコのオールド・サン・フアンにあるサンフアン大聖堂に位置している。




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