ピケットの突撃 戦闘の後

ピケットの突撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/11 02:21 UTC 版)

戦闘の後

ピケットの突撃は大量殺戮になった。北軍の損失は戦死、負傷あわせて約1,500名だったのに対し、南軍は損失率50%以上に昇った。ピケット師団の損失は2,655名(戦死498名、負傷643名、負傷した後の捕虜833名、負傷せずに捕虜681名)となった。ペティグルー師団は約2,700名(戦死470名、負傷1,893名、捕虜337名)になると推計された。トリンブル師団の2個旅団の損失は885名(戦死155名、負傷650名、捕虜80名)だった。ウィルコックスの旅団は200名、ラング旅団は約400名と報告した。攻撃中の損失全体は6,555名であり、そのうち少なくとも1,123名は戦場で戦死し、4,019名は負傷し、かなりの負傷兵が捕虜になった。南軍の捕虜総数はその報告書から推計するのは難しい。北軍の報告書では3,750名を捕まえたことになっている[27]

損失率は突撃の指揮官の間でも高かった。ピケット師団の3人の旅団長と15人の連隊長全てが損失の中に入っていた。ケンパーは重傷を負い、一旦北軍兵に捕まえられた後で救出され、バージニアに撤退中に再度捕まえられた。ガーネットとアーミステッドは戦死した。ガーネットは以前足を負傷したことがあり、突撃のときに馬に乗っていた。激しい砲火の中でこれみよがしに馬に乗っているということは確実な死を意味することを知っていた可能性がある。アーミステッドはその剣の先に帽子を載せて旅団を率いていたと言われている。その旅団は北軍前線を突き抜けて一番遠くまで進んだ。アーミステッドは致命傷を負ってアングル近くで倒れ、そこが南軍の最高到達点と呼ばれている。ピケット師団の15人の連隊長の中で11人はバージニア陸軍士官学校の出身であり、6人は戦死、5人が負傷して11人全てが損失となった。トリンブルとペティグルーは当時の最も上官の損失だった。トリンブルは片足を失い、ペティグルーは手に軽傷を負った(バージニアへの撤退中の小戦闘で腹に銃弾を受けて死ぬことになった)[28]

歩兵突撃を直接支援するはずのスチュアート騎兵隊の行動は不成功だった。この隊は約3マイル (5 km)東で北軍騎兵隊と出逢い止められた[29]

兵士達がセミナリーリッジに沿った南軍の前線に必死で戻ってくると、リーは北軍の反撃を怖れ、その中央に兵士達を呼び集めるように務め、戻ってくる兵士やウィルコックス将軍に、この失敗は「全て私の責任だ」と告げた。ピケット将軍はその日の残り、慰めようのない状態であり、その後も突撃を命じたリーを許すことは無かった。リーがピケットに防御のためにその師団を呼び集めるよう言ったとき、ピケットは「リー将軍、私には師団が無い」と言ったと伝えられている[30]

北軍の反撃は結局無かった。ポトマック軍は疲れきっており、3日間の戦闘の後では北バージニア軍と同じくらいに損耗していた。ミードは陣地を維持したことで満足した。7月4日、非公式休戦を守り、死体や負傷者を集めた。一方この日、ユリシーズ・グラント少将はミシシッピ川沿いのビックスバーグ守備隊の降伏を受け入れ、南軍を2つに分けた。この2つの北軍勝利は南北戦争の転換点と一般に考えられている[31]

ゲティスバーグにおけるリーの意図について本当の話を知ることはできないと思われる。リーは自叙伝を出版することは無く、戦闘後の事後報告書も通り一遍だった。突撃を行った上級士官の大半が損失となっており、報告書を書かなかった。ピケットの報告書は明らかに大変苦渋に満ちたものであり、リーはそれを反故にするよう命じ、その写しは発見されなかった[32]

バージニアの新聞はピケットのバージニア師団が突撃の時に最も進行したとして称賛し、ピケットの相対的な成功を突撃に参加した他の州の部隊の行動を批判する材料に使った。ピケットの突撃という名前を選定するときに重要な役割を演じたのはこの報道だった。ピケットの軍歴は突撃の後同じようにはならず、ピケットはその名前が突撃に付け加えられることを喜ばなかった。特にノースカロライナ州では長い間例外的にブロッケンブローのバージニア部隊の前進時におけるお粗末な行動を失敗の主要な原因として特徴づけ指摘してきた[33]

突撃のときにピケットがいた場所について戦闘後に幾らかの論争が発展した。その士官の15人と旅団長3人がすべてが損失となる一方、ピケットは負傷を免れ、戦闘現場への接近度合いと暗にその個人的勇気について疑問が生じた。1993年の映画ゲティスバーグはエミッツバーグ道路にあったコードリ農園で馬上から見守っていたように描いたが、これを確認する証拠はない。南北戦争で師団長以上の指揮官は「後方から指揮し」、旅団長以下の士官は先頭に立って指揮するのが確立された原理だった。この原理はしばしば破られていたが、もしピケットが後方からその部隊を指揮していたとしても恥じることは無い[34]

ピケットの突撃は敗北の原因として知られる文学と文化の運動で偶像的象徴の一つになった。典型的な南部の小説家ウィリアム・フォークナーはこの勇敢だが無益に終わった話に関する南部人の記憶にある映像を次のように要約した[35]

南部の14歳の少年ならだれでも、一度ならず望むときにはいつでも、1863年7月のあの午後2時にまだなっていないという瞬間があり、旅団達はレールのフェンスの後ろに位置し、大砲は森の中に据えられて準備され巻かれた旗が既に進みだすために緩められピケット自身はその長い油を付けた巻き髪で片手には帽子をもう一方には剣を持ちロングストリートが命令を出すのを待ちながら丘を見上げており全てはまだはっきりしていない状態であり、まだ起こっていない、始まってすらいない、始まっていないだけでなく敵陣に対して始めないための時間が残っておりガーネットとケンパーとアーミステッドとウィルコックス以外の人々を深刻な顔にさせる状況が始まろうとしており、我々は全てそれを知っていて、我々はあまりに大きな賭けとともに遠くまで来てしまっておりその瞬間は14歳の少年でもこの時だと考える必要のないものである。おそらくこの時は得るもの全てよりも失うもの全てなのだ。ペンシルベニア、メリーランド、世界、ワシントンの金色のドーム自体が絶望的な賭けに絶望的で信じられない勝利を被せた、賽は2年前に投げられた。 —  ウィリアム・フォークナー、 『墓地への侵入者』"Intruder in the Dust"

  1. ^ Pfanz, pp. 44-52.
  2. ^ Boritt, p. 19.
  3. ^ a b Eicher, pp. 544-46.
  4. ^ Eicher, p. 544.
  5. ^ Wert, pp. 98-99.
  6. ^ Gallagher, p. 141.
  7. ^ Coddington, pp. 454-55.
  8. ^ Sears, pp. 377-80; Wert, p. 127; Coddington, p. 485.
  9. ^ Symonds, p. 214: "ニューメキシコ州アラモゴードにおける最初の核実験の爆発までの北アメリカ大陸で、最も騒々しい人工の音だった可能性がある。"
  10. ^ Hess, p. 162, disputes the two hour duration, writing that the bombardment was essentially over by 2 p.m.
  11. ^ Estimates of the guns deployed vary. Coddington, p. 493: "over 150"; Eicher, p. 543: 159; Trudeau, p. 452: 164; Symonds, p. 215: "more than 160"; Clark, p. 128, "about 170"; Pfanz, p. 45: "170 (we cannot know the exact number)." All agree that approximately 80 guns available in the Army of Northern Virginia were not used during the bombardment.
  12. ^ Eicher, p. 543.
  13. ^ Sears, pp. 397-400; Coddington, p. 497; Hess, pp. 180-81; Clark, p. 135.
  14. ^ Sears, p. 383. The temperature was recorded at 2 p.m. by Professor Michael Jacobs of Gettysburg College.
  15. ^ Hess, p. 151.
  16. ^ Wert, p. 283.
  17. ^ Coddington, pp. 500-02.
  18. ^ Estimates vary substantially. Clark, p. 131: 12,000; Sauers, p. 835: 10,500 to 15,000; Eicher, p. 544: 10,500 to 13,000; Sears, p. 392: "13,000 or so"; Pfanz, p. 44: "about 12,000"; Coddington, p. 462: 13,500; Hess, p. 335: 11,830.
  19. ^ Hess, p. 171; Clark, p. 137; Sears, pp. 424-26.
  20. ^ Sears, p. 422.
  21. ^ Sears, pp.422-25, 429-31; Hess, pp.188-90.
  22. ^ Sears, pp.434-35.
  23. ^ Clark, pp.139-43; Pfanz, p.51; Sears, pp.436-39.
  24. ^ Sears, pp.436-43;.
  25. ^ Sears, pp.444-54; Hess, pp.245, 271-76; Wert, pp.212-13.
  26. ^ Eicher, pp.547-48; Sears, pp.451-54.
  27. ^ Hess, pp.333-35. Sears, p.467.
  28. ^ Sears, p.467; Eicher, pp.548-49.
  29. ^ Pfanz, pp.52-53.
  30. ^ Hess, p.326; Sears, p.458; Wert, pp. 251-2, disputes prevalent accounts that Lee and Pickett met personally after the battle.
  31. ^ Pfanz, p.53.
  32. ^ Wert, p.297.
  33. ^ Desjardins, p.47; Sears, p.359.
  34. ^ Sears, pp.426, 455; Coddington, pp.504-05.
  35. ^ Quoted in Desjardins, pp.124-25.
  36. ^ Harman, pp.77, 116; Sears, map, p.427.
  37. ^ Heiser, John (2005年). “The Gettysburg Cyclorama”. Gettysburg National Military Park. National Park Service. 2008年2月21日閲覧。






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