バハイ信教 迫害

バハイ信教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/26 05:00 UTC 版)

迫害

バハイたちは、イスラム教の指導者たちがバハイ信教を独立した宗教として認めず、むしろイスラム教からの背教としてみなしている、イスラム教が多数を占める国々で迫害され続けている。最も深刻な迫害はイランで起こっており、1978年から1998年の間に200人以上のバハイが処刑された[153]。バハイの権利はエジプトアフガニスタン[154]インドネシア[155]イラク[156]モロッコ[157]イエメン[158]、サハラ以南のアフリカのいくつかの国を含む、他の多くの国で(程度の差はあれ)制限されている[75]

イラン

バハイに対する最も永続的な迫害は、この宗教の発祥地であるイランである[159]。バブが多くの信者を引き付け始めたとき、聖職者はその信者が神の敵であると述べることによって運動の広がりを止めることを望んだ[159]。これらの聖職者の指示は、バブの信者に対する暴徒の攻撃と公開処刑につながった[12]。20世紀に入ってから、個々のバハイを対象とした弾圧に加えて、バハイの共同体全体とその機構を対象とした、中央から指示されたキャンペーンが開始された。1903年にヤズドで起きた一件では、100人以上のバハイが殺された[160]。テヘランのタルビヤート少年少女学校などのバハイ学校は1930年代と1940年代に閉鎖され、バハイの結婚は認められず、バハイのテキストは検閲された[161][162]

モハマド・レザー・パフラヴィーの治世の間、イランの経済的困難と成長する民族主義運動から注意をそらすために、バハイに対する迫害キャンペーンが開始された[注釈 4]。承認され、調整された反バハイ・キャンペーン(バハイに対する国民の激怒を煽るためのもの)は1955年に開始され、それは国営ラジオ局と公式新聞で反バハイのプロパガンダを広めることを含んでいた[161]。ムッラ・ムハンマド・タギ・ファルサフィが始めたこのキャンペーンで、テヘランのバハイ・センターは、テヘラン軍総督テイムール・バフティアール将軍の命令で取り壊された[164]。1970年代後半になると、シャー政権は親欧米派であるという批判から一貫して正統性を失っていった。反シャー運動が地歩を固め、支持を得るにつれ、シャーの顧問の何人かがバハイであると主張する革命的プロパガンダが広まった[165]。バハイが経済的脅威、イスラエルと西洋の支持者として描かれ、バハイに対する社会的敵意が高まった[161][166]

1979年のイスラム革命以来、イランのバハイたちは定期的に家を荒らされたり、大学への通学や政府の仕事に就くことを禁止されており、数百人が宗教的信条のために(最近ではスタディサークルへ参加したために)実刑判決を受けている[153]。バハイの墓地は冒涜され、不動産は差し押さえられ、時には取り壊されることもある。その対象となった不動産には、バハオラの父であるミルザ・ボゾルグの家も含まれている[12]。バハイが巡礼を行う三つの場所の一つであるシラーズのバブの家は二度、破壊されている[12][167]。2018年5月、イラン当局は若い女子学生を、彼女がバハイであることを理由にイスファハーンの大学から追放した[168]。2018年3月、さらに二人のバハイの学生が、彼らが信仰している宗教を理由にザンジャーンとギランの都市にある大学から追放された。

米国のパネルによると、イランにおけるバハイへの攻撃は、マフムード・アフマディネジャド大統領の下で増加した[169][170]国連人権委員会は、イラン軍司令部から発された、バハイを特定し、その活動を監視するようメンバーに命じる2005年10月付の極秘書簡を明らかにした。これらの行動により、国連人権委員会の特別報告者は2006年3月20日、次のように述べた。「このような監視の結果得られた情報が、国際基準に反して、バハイ信教のメンバーに対する迫害や差別を強める根拠として使われることにも懸念を表明する。特別報告者は、この最新の進展が、イランにおける宗教的少数派に関する状況が実際に悪化していることを示していることを懸念している」[171]

2008年5月14日、イランのバハイ共同体の活動を調整する、「フレンズ」として知られる現地の指導層である非公式団体のメンバーが逮捕され、エヴィン刑務所に連行された[169][172]。フレンズの裁判は何度か延期されたが、2010年1月12日にようやく開始された[173]。他の傍聴者は法廷に入ることは許されなかった。2年間、被告との接見を最小限に抑えてきた弁護団でさえ、法廷に入るのは困難であった。米国の国際信教の自由委員会の委員長は、政府はすでに裁判の結果を決めており、国際人権法に違反しているようだと述べた[173]。さらに裁判は2010年2月7日[174]、2010年4月12日[175]、2010年6月12日にも開かれた[176]。2010年8月11日、裁判の判決は7人の受刑者それぞれに対して禁固20年であったことが明らかになり[177]、これはその後10年へと引き下げられた[178]。判決後、彼らはゴハルダシュト刑務所に移送された[179]。2011年3月、判決は元の20年に戻された[180]。2010年1月3日、イラン当局はさらに10人の未成年バハイのメンバーを拘束し、その中には2008年以来投獄されている7人のバハイの指導者の一人であるジャマロッディーン・カンジャニの孫娘レヴァ・カンジャニが含まれていると報じられ、当局は2月に彼の息子であるニキ・カンジャニを逮捕した[181]

イラン政府は、バハイ信教は宗教ではなく、政治的組織であると主張しており、それゆえ少数派の宗教として認めることを拒否している[182]。しかし、政府はバハイ共同体に対する自らの主張を裏付ける説得力ある証拠を提示したことはない[183]。イラン政府はまた、バハイ信教がシオニズムと関連していると非難している[注釈 5]。バハイに対するこれらの非難は歴史的事実の根拠を欠いているようであり[注釈 6][166][184]、バハイを「スケープゴート」として利用するためにイラン政府が作り出したものだと主張する者もいる[185]

2019年、イラン政府はバハイがイラン国家に合法的に登録することを不可能にした。イランにおける国民IDカードの申請には、「その他の宗教」という選択肢が含まれなくなり、事実上、バハイ信教は国家に承認されなくなった[186]

エジプト

1920年代、エジプトの宗教裁判は、バハイの「法、原則、信念」の性質により、バハイ信教をイスラム教から完全に分離し独立した新しい宗教として認めた。バハイの機構や共同体の活動は、1960年以来、エジプトの法律では違法とされている。バハイ・センター、図書館、墓地など、バハイ共同体の財産はすべて政府に没収され、バハイを背教でもって告発するファトワーが発行されている[187]

エジプトIDカード論争は、1990年代に政府が身分証明書の電子処理を近代化したときに始まり、文書にはその人の宗教をムスリム、キリスト教徒、ユダヤ教徒(政府によって公式に認められている、三つの宗教)のいずれかとして記載しなければならないという事実上の要件が導入された。その結果、バハイは、バハイの宗教原則に抵触する、自らが信仰する宗教を偽るということをしない限り、自国での権利行使に必要な政府の身分証明書(国民IDカード、出生証明書、死亡証明書、結婚・離婚証明書、パスポートなど)を取得することができなくなった。文書がなければ、雇用、教育、病院での治療、国外への旅行、投票において、その他さまざまな困難があった[188]。バハイに有利な判決に至る長引く法的プロセスを経て、2009年4月14日、エジプト内務大臣は、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒ではないエジプト人が、三つの公認宗教のうちの一つの代わりにダッシュを記載した身分証明書を取得できるように法律を改正する法令を発表した[189]。最初の身分証明書は2009年8月8日に新しい法令に基づいて2人のバハイに発行された[190]


  1. ^ バハイ信教は、「宗教」、「宗派」[2]、「比較的新しい宗教」[3]、「世界宗教」[4]、「主要な世界宗教」[5]、「巨大宗教」[6]:2:4、「独立した世界宗教」[7]、「新宗教運動」[8]、「代替宗教」[9]、など様々に表現され、他にも(確立された宗教と比較して)新しく、主流ではなく、人種や国家に焦点を当てていないことを伝えようとしている。
  2. ^ 情報源はバハイ信教が広めようとしていることとして、次のように要約している。「すべての宗教の本質的価値、すべての民族の和合、男女平等」[10]、「すべての宗教の本質的和合と人類の和合」[11]、「人類の精神的統合と平和と普遍的教育を提唱」[6]:2:653、「神の下でのすべての民族の和合」[5]、または「宗教的和合。 ...人類の一体性...人種、民族、性別、社会階級に関係なく、すべての人間の平等」。
  3. ^ すべてのレズワン・メッセージはBahai.orgで見ることができる。日本語は、バハイ・オンライン・ライブラリー(www.bahaijp.org/library/uhj.htm)で見ることができる。
  4. ^ これと一致するのは、政府が、深刻な経済的困難を含む、より深刻な問題から注意をそらすために、このキャンペーンを奨励したという考え方である。これを超えて、ムサディクを支持していた民族主義運動を利用する上で政権が直面していた困難があった[163]
  5. ^ 在アルゼンチン・イラン大使館の代表者は、バハイが「誤ったグループであり...世界的シオニズムとの提携や関連は明らかな事実」であり、「キリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター教のような少数派と同じ範疇に入れることはできない」という事実によって排除が促されたと説明した[161]:22, n. 148
  6. ^ イランの指導者ナセル・アルディン・シャー・カジャールは、バハオラをイランからオスマントルコ帝国に追放した。その後、バハオラはオスマントルコ帝国のスルタンに追放され、イランのシャーの命令で、イランからさらに離れた領土に追放され、最終的には、わずか1世紀後にイスラエル国家に編入されたアッカに追放された。





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