ハッテラス入り江砲台の戦い 戦闘

ハッテラス入り江砲台の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/12 05:10 UTC 版)

戦闘

初日、日没まで

8月28日朝早く、USSミネソタ、USSウォバシュおよびUSSカンバーランドがクラーク砦への砲撃を開始し、軽量の艦船は東に約3マイル (5 km) の地点に輸送艦を誘導し、陸軍が上陸を始めた。ストリンガムはウォバシュカンバーランドを引っ張る形で、その艦船を弧を描いて動かした。午前11時頃、USSサスケハナが戦列に合流した。これら艦船は砦にその舷側砲を向けて発砲し、後方の射程外に退いて弾填めし、また戻って発砲した。動き続けることで、砦の砲手が砲撃の間に照準を矯正できないようにし、このやり方で艦船の大砲に対する陸の大砲の伝統的な優位をほとんど排除した。この戦術はクリミア戦争セバストーポリの包囲戦の時にイギリスフランスの戦隊が使っていたが、アメリカ海軍が使ったのは初めてだった[16]

クラーク砦からの反撃は無効であり、手前で落ちるか頭上を飛び過ぎて、砲撃してくる艦船に当たることは無かった。正午少し過ぎ、守備隊の弾薬が枯渇し、午後12時25分に完全に無くなった。この時点で守備隊は砦を放棄し、ハッテラス砦に逃げる者もあれば、ボートで逃げる者もいた。北軍部隊を指揮するマックス・ウェーバー大佐はこの時既に上陸しており、砦の様子に気付いて部下にそこを占領するよう送ったが、海軍の戦隊は気付かず、その後5分間は砲撃を続けた。上陸部隊が唯一の損失を受けたのはこの混乱の数分間のことであり、兵士の1人が砲弾の破片で手に重傷を負った。幸運にも、上陸部隊の数名が大きなアメリカ国旗を振ることで艦船の砲手達の注意を引くことができ、艦砲射撃が止まってそれ以上の被害は出なかった[17]。ストリンガムとその部下の艦長達はハッテラス砦にその注意を向けた。

一方、上陸はそれほどうまく運ばなかった。風が起こって波を立て、上陸ボートを水浸しにして転覆させ、バトラー将軍がそれ以上の上陸を中断させなければならなかったとき、まだ部隊の3分の1しか上陸していなかった。ウェーバー大佐は配下に318名しかいないことが分かった。これには自身の連隊である第20ニューヨーク歩兵連隊からの102名だけでなく、第9ニューヨーク歩兵連隊からの68名、沿岸警備隊からの28名、砲兵隊45名、海兵45名および重砲を操作できる水兵28名が含まれていた。磯舟から岸になんとか揚げることができた2門の野砲で、南軍の反撃があったとしても防ぐことはできたが、ハッテラス砦に攻撃を掛けるには勢力が不足した[17]

ハッテラス砦にたいして、ストリンガムはクラーク砦に対してやったようにその艦船を動かし続けた。守備隊は散発的に発砲することで弾薬を節約しようとしたので、ストリンガムは砦が放棄された可能性があると考えた(軍旗は翻っていなかった。戦闘前に古い旗がボロボロになっており、取り替えられることはなかった)。ストリンガムはUSSモンティチェロを入江に入れて様子を探らせたが、その時砦が生き返った。モンティチェロは脱出しようとしている時に座礁し、この状態で砲弾を5発受けた。水兵が数人軽傷を負ったが、モンティチェロには深刻な損傷にならなかった[18]

この日が終わる頃、戦隊は天候が悪化する可能性に後退し、疲れ切った守備隊は援軍を待ち焦がれ、上陸した北軍は飲み水が乏しくて夕食も摂れず、その敵軍が期待している援軍が来ることを恐れながら眠りに就いた。

日没後と2日目

暗くなってからのどこかの時点で援軍が砦に到着し始めた。砲艦CSSウォーレン・ウィンスローがオクラコーク砦から幾らかの守備隊を運び込み、その水兵の幾らかも大砲を操作するために残った。このことでハッテラス砦の兵員は700名以上となり、さらにニューバーンからの援軍も期待できた。援軍を連れてきたのは海軍将官サミュエル・バロンであり、ノースカロライナ州とバージニア州の海岸防衛軍を指揮していた。マーティン大佐は疲労困憊を訴え、バロンに指揮を執ってくれるよう要請した。バロンはニューバーンからの援軍が到着すればクラーク砦を取り返すことができると信じていて、これを受けた。

2日目の夜明けに守備隊の望みは消し飛んだ。天候が穏やかになり、北軍の戦隊が戻ってきて艦砲射撃を再開するのを可能にしていた。また輸送船を派遣して援軍を上陸させることも可能だった(1隻の輸送船が入江に入ることができたが、援軍を送るのではなく、負傷者を何人か連れ帰った)。戦隊は当初動き回ることを続けたが、間もなく砦の大砲からの射程から外れていることが分かった。その後の艦船は場所を変えずに、反撃される恐れの無い砦への砲弾を降り注いだ。砦の兵士達は堪え忍ぶしか手段が無かった。約3時間後、バロンは士官達の作戦会議を招集し、喩え損失が極小であるにしても、休戦条件を求めることに決した(実際の死傷者の数は不正確にしか分かっていない。様々な報告書では戦死者の数を4名から7名、負傷者の数を20名から45名としている[19])。バトラーは降伏を要求し、バロンが応じた。戦闘は終わり、生存者は戦争捕虜キャンプに向かった。捕虜の数は691名に登り、負傷者を含んでいるが逃亡者は含んでいなかった[20]


  1. ^ Maury, The physical geography of the sea, p. 27.
  2. ^ Trotter, Ironclads and Columbiads, pp. 21–24.
  3. ^ Pronounced BOW-fort in North Carolina; the name of the town in South Carolina is pronounced BYOO-fort.
  4. ^ Henry T. Clark was Governor of North Carolina; see Trotter, Ironclads and Columbiads, p. 16.
  5. ^ ORA I, v. 4, p. 584. But see p. 591, where the number of mounted guns in Fort Hatteras is stated to be 12.
  6. ^ Trotter, Ironclads and Columbiads, p. 19.
  7. ^ ORN I, v. 6, pp. 78–80.
  8. ^ ORN I, v. 6, pp. 77–78.
  9. ^ ORN I, v. 12, pp. 198–201.
  10. ^ ORA III, v. 1, p. 961.
  11. ^ ORA I, v. 4, p. 581.
  12. ^ ORN I, v. 6, p.109.
  13. ^ ORA I, v. 4, p. 580.
  14. ^ Predecessor of the US Coast Guard.
  15. ^ ORN I, v. 6, p. 120.
  16. ^ ORN I, v. 6, p. 121.
  17. ^ a b ORA I, v. 4, p. 589.
  18. ^ ORN I, v. 6, p. 123.
  19. ^ Trotter, Ironclads and Columbiads, p. 38.
  20. ^ ORA I, v. 4, pp. 592–594.
  21. ^ Trotter, Ironclads and Columbiads, p. 40.
  22. ^ National Park Service, The American Civil War






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