ドン・ジュアン (戯曲)
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成立過程
本作はこうしたドン・ジュアン伝説の人気の高まりを受けて、制作されたものである[6]。
モリエールの喜劇作家としての、実力的にも、社会的にも絶頂期に書かれた作品であるが、その生活においては必ずしも順風満帆というわけではなかった。1662年に結婚した妻、アルマンドとは上手くいかず、胸部の疾患が悪化しており、健康状態も良くなかった。それに加えて『タルチュフ』はキリスト教の秘密結社、聖体秘蹟協会の猛抗議を受けて上演禁止となり、その後も親友、劇団の看板役者の死去、息子の夭折など不運が重なり、肉体的にも精神的にも非常なダメージを負っていた[7]。
そのため、劇団の本拠地パレ・ロワイヤルではほとんど公演は行わず、有力貴族たちの家において公演をしたりする程度の活動しか行っていなかったが、モリエールはすでにたくさんの座員を抱える劇団の座長であり、ライバルも多数いるため、いつまでもこのような状態でいるわけにはいかなかった[8]。
この頃にはすでに『人間嫌い』の腹案を思いついていたというが、『人間嫌い』は独創的な大作であり丁寧に仕上げるつもりであったため、座員の1人の進言に従って当時パリで流行していた「ドン・ジュアン」を題材にとって、作品を書き上げることにしたのである[8]。
こうして上演された『ドン・ジュアン』はもくろみ通りに大成功したが、再び『タルチュフ』の上演を禁止に追いやったキリスト教信者たちが騒ぎ始めた。モリエールは自発的に第3幕第2景(=森の貧者の場面)をカットしたが、彼らの攻撃が止まなかったために連日大入りにもかかわらず、わずか15回の公演を行った後に上演を自ら中止した[9]。
自発的に上演を中止してからもジャンセニストから激しい口調で彼を攻撃するパンフレットが発せられたので、モリエールの友人たちがそれに反駁するための出版物を準備したが、ルイ14世が仲裁に乗り出したことで争いは収まった[9]。この後、家庭生活の不和やラシーヌの裏切りなどもあって、持病の胸部疾患が極度に昂進し、床に臥すことになった[10]。死亡したという噂さえ広まったが、度重なる不幸にもめげず、彼の代表作の1つとなる『人間嫌い』の執筆を進めていたのである[11]。
本作は、モリエールの没後数年経ってから、未亡人アルマンド・ベジャールの請願によって上演が許可された。しかし、上演されたのはコルネイユが手を加えて毒を抜き去ったものに過ぎず、そのままの上演がなされたのは19世紀の半ば頃になってからであった[12]。
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