テトラルキア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/16 15:18 UTC 版)
歴史
成立過程
284年に即位したディオクレティアヌスが自らのテトラルキア体制を確立するまでには段階があり、慎重に権力の移譲が進められていった。まず最初に、腹心で285年に副帝へ叙任されていたマクシミアヌスを286年に共同皇帝に昇格させ、領土の支配権を分与して二頭政治を確立した(第一段階)。この体制化では重要度の高かった帝国東方の諸属州を抑えるのにディオクレティアヌスが専念するため、マクシミアヌスがイタリア本土を含む西方地域の管理を行う事が目的であった(西方正帝・東方正帝)。しかし統治が進むにつれて国境紛争の多い東方領土を管理するには皇帝一人では手が回らず、また西方も広大な後方地域を管理するにはやはり皇帝一人では足りなかった。
293年、皇帝と共同皇帝がそれぞれ副帝を新たに叙任するという新しい試みがディオクレティアヌスから提案され、マクシミアヌスも了承した(東方副帝・西方副帝)。かくしてガレリウスとコンスタンティウス・クロルスが副帝に昇格し、帝国は四分された(第二段階)。305年に老齢を理由にディオクレティアヌスとマクシミアヌスが退位すると、そのまま二人の副帝は皇帝へ昇格した。空席となった二つの副帝も新たにフラウィウス・ウァレリウス・セウェルスとマクセンティウスが任命され、人物を変えながらもテトラキア体制は継承された。
軍事的成功
「3世紀の危機」において皇帝が直面した問題は、自身が軍隊の指揮できる場所は、常に国境周辺の一箇所に限られるというものであった。アウレリアヌス帝やプロブス帝は何千マイルもの距離も厭わず軍隊を引き連れて戦地間を移動したが、この方策は理想的とはいえなかった。また、皇帝が不在の地域で次位の将軍に権限を委任することもあったが、これには戦いに勝利した将軍がそのまま皇帝を名乗って敵対するという危険性があり、時にこれは現実となった。
テトラルキアでは、2人が正帝で2人が副帝とはいうものの、帝位を持つ4人の役割と権限は同じで、基本的に同じ地位にあった。デュアルキア(2分割支配)とテトラルキアでは、問題地域の近くに常時1人は皇帝がいるため、国境周辺の一領域に限らず、同時に複数箇所で皇帝自身が軍を指揮できるようになった。これにより、重要な軍事的成功を収めることができた。3世紀には、ローマはペルシアに敗北を重ねており、296年にも敗北したが、298年にはガレリウス帝が逆転してナルセ1世率いるペルシア軍を撃破した。この戦勝ではナルセの一族を捕虜とし、相当な量の戦利品を獲得したうえ、かなり有利な和平条約の締結に成功して、その後数10年にわたる平和をもたらした。同様に、コンスタンティウス帝もブリタンニアにて帝位を簒奪したアレクトゥス (Allectus) を破り、マクシミアヌス帝はガリアを平定し、ディオクレティアヌス帝はエジプトにてドミティウス・ドミティアヌス (Domitius Domitianus) の反乱を打ち破った。
内戦
305年、ディオクレティアヌスとマクシミアヌスは20年の統治を終え、ともに退位した。同時に副帝であったガレリウスとコンスタンティウスは正帝に昇格し、新たにマクシミヌス・ダイアがガレリウスの副帝(東方)に、フラウィウス・ウァレリウス・セウェルスがコンスタンティウスの副帝(西方)に選任された。ここに第2のテトラルキアが形成されたのである。
しかしこの制度は間もなく瓦解した。306年、西方正帝コンスタンティウスが死ぬと、東方正帝ガレリウスは西方副帝セウェルスを正帝とした。一方、コンスタンティウスの息子コンスタンティヌス(後の1世、大帝)も、軍に推戴され父の後継者として西方正帝を宣言した。同時にマクセンティウス(マクシミアヌスの息子)は新秩序から疎外された身分を不満とし、セウェルスを退位させ、307年には殺害した。その後、マクシミアヌス・マクセンティウス父子も正帝を宣言した。すなわち、308年にはガレリウス、コンスタンティヌス(1世)、マクシミアヌス、マクセンティウスの4人が正帝を名乗り、副帝は東方のマクシミヌスのみという状況になった。
308年、元々の東方正帝ガレリウスは先帝ディオクレティアヌスと(同じく先帝であるはずの)マクシミアヌスを伴い、ドナウ川河畔のカルヌントゥムでいわゆる「帝国会議」を開催し、リキニウスが西方正帝でコンスタンティヌス1世はその副帝であるという合意を得た。一方、東方ではガレリウスとマクシミヌスが引き続き正帝と副帝に就いた。一度は復位を宣言したマクシミアヌスは再び引退し、その子マクセンティウスは簒奪者とされた。だが、この合意がのちに事態を一層悪化させることとなった。308年の時点で皇帝の位から追われたマクセンティウスは、イタリアとアフリカを事実上支配していた。また、コンスタンティヌス1世とマクシミヌスの両者(ともに305年から副帝)は正帝としてのリキニウスの幕下に入る気は毛頭持ち合わせず、その地位を認めようともしなかった。
コンスタンティヌス1世とマクシミヌスの両者に「正帝の息子(filius Augusti)」(副帝の別称であり同時に正帝位の継承権も意味した)という名目的な称号を与えることで懐柔しようという試みは失敗に終わり、309年には両者とも正帝と認めざるを得ない状況となった。こうして4人の正帝が互いに反目しあっている状態が生まれたが、これはテトラルキアにとって好ましい状況とはいえなかった。
崩壊
309年から313年の間に、皇帝の座を狙った有力者の多くが、内戦などで表舞台から去ることとなった。310年、コンスタンティヌス1世は、マクシミアヌスを絞首台に送ることに成功した。311年には東方正帝ガレリウスが死去、「簒奪者」マクセンティウスは、312年にミルウィウス橋の戦いでコンスタンティヌス1世に敗れ、戦死した。313年、東方副帝マクシミヌスはリキニウスと戦って敗れ、タルススで自害した。結果として313年には西方正帝コンスタンティヌス1世と、東方正帝リキニウスだけが残った。
324年、コンスタンティヌス1世はリキニウスを破って自ら「唯一の正帝」を宣言、ここにディオクレティアヌスによるテトラルキアは一旦の終焉を迎えた(コンスタンティヌス朝)。
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