タイダルウェーブ作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/11 03:17 UTC 版)
背景
ドイツのナチス党政権は1940年9月、ルーマニアのイオン・アントネスクによる親ドイツ政権の樹立を支援し、1941年1月には石油の供給と油田防衛のためのドイツ軍部隊の進駐を認めさせた[1]。これによりドイツ及びイタリアの石油需要の多くは、年間生産量4,300万バレルのプロイェシュティ油田の石油によって賄われることとなった[1][* 2]。
連合国側は1942年にドーリットル空襲とは別に、連合国側である中華民国の基地からB-24爆撃機23機を出撃させ日本本土爆撃を行う作戦計画を持っていた[2]。1942年5月、この作戦実施部隊が中継地のスーダンに着いた時、大日本帝国陸軍が出撃予定基地を攻撃占領したことから、作戦は頓挫してしまった[3]。このため合衆国軍は急遽同部隊の13機によるプロイェシュティ油田に対する爆撃作戦に変更し、1942年6月11日に爆撃を実施した[3]。出撃機13機は損害無く帰還したものの、製油施設の被害はほとんどなく、作戦は失敗に終わった[3]。この結果、ルーマニア駐留ドイツ空軍総司令官アルフレート・ゲルシュテンベルク将軍の要請により油田、製油施設に対するレーダー施設などの早期警戒網の充実、戦闘機部隊の強化などの防衛強化策が施されることとなった[3]。1943年1月のカサブランカ会談で、アメリカ大統領ルーズベルトとイギリス首相チャーチルの両首脳は、枢軸国の重要拠点である石油関連施設の破壊を戦略方針の一つとして決定した[3][* 3]。
注釈
- ^ ミッチャム (2008)、p.478 では、参加機数を177機としている。ベッカー (1974)、p.426 では、178機としている。
- ^ ドイツの 1/3 とイタリアの全需要をまかなった[1]。
- ^ 連合爆撃攻勢作戦計画中の優先目標リストで、主目標の一つとして石油生産・燃料精製工業が挙げられ、プロイェシュティについては地中海方面からの攻撃とされた[4]。
- ^ ミッチャム (2008)、p.478 では、枢軸国空軍による迎撃について往路、目標地域上空及び復路でギリシャに配備された第27戦闘航空団第4飛行隊(IV/JG27)、ルーマニアの第4戦闘航空団第1飛行隊(I/JG4)及びブルガリア戦闘機連隊の攻撃を受けたとしている。ベッカー (1974)、p.426 では、復路で第4戦闘航空団第1連隊(第1飛行隊と同義)、第27戦闘航空団第4連隊(第4飛行隊)の一部及びルーマニア戦闘機に加え、第6夜戦航空団(夜戦戦闘航空団)第4連隊(第4飛行隊)のBf110数機が追撃し、一部を海上で捕捉したとしている。
- ^ ミッチャム (2008)、p.478 では、43機が撃墜され、13機が不時着等で喪失、50機以上が損傷を受けたとしている。ベッカー (1974)、p.426 では撃墜機数を48機としている。
出典
- ^ a b c 白石 (2009)、p.86
- ^ 白石 (2009)、pp.86-87.
- ^ a b c d e f 白石 (2009)、p.87
- ^ マーレイ (2008)、p.293
- ^ 白石 (2009)、pp.87-88.
- ^ a b 白石 (2009)、p.88
- ^ 白石 (2009)、pp.88-89.
- ^ a b c d 白石 (2009)、p.89
- ^ a b c d e 白石 (2009)、p.92
- ^ 白石 (2009)、p.90
- ^ a b 白石 (2009)、p.91
- ^ a b 白石 (2009)、pp.91-92.
- ^ 白石 (2009)、pp.92-93.
- ^ a b c d e f 白石 (2009)、p.93
- ^ ミッチャム (2008)、p.478
固有名詞の分類
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