ガブリエル・ド・クリュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/01 18:26 UTC 版)
Jump to navigation Jump to search1720年代に西半球のフランス植民地におけるコーヒー栽培を発案し、栽培に尽力したことで知られている。
経歴
フランス海軍に入り、スペイン継承戦争に従軍した。15年後の1702年にはル・アーヴルで海軍士官候補生となり、翌年ロシュフォールに移り1705年まで士官教育を受け、少尉となった。1718年には、サン・ルイ勲章シュヴァリエを受勲している[4]。
1720年海兵隊大尉となり、1723年ナントからマルティニークへ赴任した。1725年にはマリー・ガラント島の幕僚となり[4]、1737年から1753年までグアドループ総督を務めている。その間の1746年には大佐にまで昇進、1750年にはサン・ルイ勲章コマンドゥールを受勲している[4]。1752年8月12日グアドループを離れ(総督はLafondが代行)[1]、1753年9月1日、ル・アーヴルへ転任[4]。1756年にはポール=ルイで指揮官を務めた。1759年のイギリス海軍によるル・アーヴル襲撃では、浮き砲台を指揮して防衛に当たり、功績を残している。1774年サン・ルイ勲章グランクロワを受勲、11月29日パリにて没[5]。
マルティニークへのコーヒー移入
ド・クリューのマルティニークへのコーヒー導入の物語は、『文芸年誌』Année littéraireの編集者に宛てた1774年の彼の手紙によって知られるものである。駐屯地マルティニークからの一時帰国中、パリ植物園のコーヒーノキの苗木(元は1710年代にホラントから輸入した木の子孫)をマルティニークで栽培することを目論み、密かに持ち出して船中で育て、1720年にマルティニークに持ち帰った。この木が現在南米で多く栽培されているコーヒーノキの原点とされている[6] 。クリューの記述によると、水は航海で配給されたものであり、その一部を苗木に与えたとしている。この物語はコーヒー史において必ず登場する有名な話である[7]が、近年の歴史学はクリューが苗木を購入しマルティニークに導入したのは事実であり、もしかしたら本当に配給の水を分け与えていたのかもしれないが、コーヒーノキはそれ以前から既に西半球に存在したことを指摘している。すなわち1715年にはフランス領サン=ドマング、1718年にはオランダ領スリナムにはコーヒーが導入されていたのである[8][9]。
資料館
ド・クリューの出身地ディエップに在住する子孫はド・クリューの業績を記念する資料館で働いている[10]。
脚註
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