アドリアーナ・ヘルツキー 紹介

アドリアーナ・ヘルツキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/10 09:03 UTC 版)

紹介

日本でまとまって紹介されたのは、1992年京都市立芸術大学の当時の教授廣瀬量平に招聘され[4]、自作の講演を行ったことが最初である。東京にも訪れ、作曲マスタークラスを行ったが、日本人の弟子が多くつくということはなかった。当時ルーマニア共産政権が動揺したことも大きく、雑誌「音楽芸術」でもクローズアップされた。

その年に三宅榛名の元を訪れ、三宅の著書『作曲家の生活』にヘルツキーとの対談が収録されている。1995年には秋吉台国際現代音楽セミナー&フェスティバルで「ミゼレーレ」がシュテファン・フッソングの演奏により日本初演された。その頃、CPOが2枚CDをリリースしたことがあったが、これらのCDは絶版である。アメリカで出版された「現代女性作曲家アンソロジー[5]」でも、ヘルツキーの「吊り橋」は譜面付きで詳細に紹介されている。東欧出身者は優れた作曲家はいてもオペラの成功者はほとんどおらず、初めて現代オペラの委嘱で著名になった人物である。

ヨーロッパのドイツ語圏を主に活動していたため、日本やアメリカロシアでは紹介が遅れたが、現在はISCM世界音楽の日々2013の審査員メンバーでもあり、諸国際作曲コンクールの審査員の常連である。ブレーメンシュトゥットガルトで教え始めて以降、その教授法には定評があり、現在の弟子にはマリオス・ヨアンノー・エリアを初めとして、中国人のヴァン・フェイなど世界中に弟子を多く持つ。30代からシュトゥットガルトで教えていたが、現在はモーツァルテウムの作曲の教授である。

1987年以前はアストリア社[6]ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から1988年以降の全作品が出版されている。デビューから間もない頃はアストリア社を用いていたが、その出版社がなくなったため、その頃の作品もブライトコプフから購入可能になった。その中には、存在だけ知られていたが入手困難であった「ピアノソナタ」、「フランツ・リストのための聴窓」などもある。日本人でヘルツキー作品を最初にレコーディングした演奏家は、向井山朋子である。紹介はほぼヨーロッパに限定されている。


  1. ^ d's edition 6 - mike svoboda'alphorn special
  2. ^ 「弦楽四重奏のための吊り橋」の冒頭部分, Breitkopf
  3. ^ Roses of Shadow”. www.aachener-zeitung.de. Aachener-Zeitung. 2020年5月19日閲覧。
  4. ^ 三宅榛名の「作曲家の生活」インタビュー当時の取材年月日に近い時期に招聘された。
  5. ^ Contemporary Anthology of Music by Women”. www.tandfonline.com. Indiana University Press. 2020年5月19日閲覧。
  6. ^ Adriana Hölszky”. www.stretta-music.com. Stretta-Music. 2020年5月21日閲覧。
  7. ^ Deutscher Musikautorenpreis 2022年8月18日閲覧。





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