1434年に大公位を奪われるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 14:21 UTC 版)
「ヴァシーリー2世」の記事における「1434年に大公位を奪われるまで」の解説
内戦の発端は、祖父・ドミトリイ・ドンスコイの遺言状にあった。そのなかで未だ子がなかったヴァシーリー1世が死去した場合に備え、その弟であるユーリー・ドミトリエヴィチが兄の死後の相続人として挙げられていた。そのために、ヴァシーリー1世が息子ヴァシーリー2世を後継者に指名した際、これにユーリーが不満を覚え、その息子ヴァシーリー・コソイとドミトリー・シェミャーカ、ドミトリー・クラスヌィーとともにヴァシーリー2世に対抗したのである。ユーリーは、ルーシに伝統的であった年長制相続によっても自己の大公位相続を正当化した。但し、ヴァシーリー2世の母親がリトアニア大公ヴィタウタスの娘であったこと、またモスクワ府主教フォティイ(ロシア語版、英語版)があからさまにヴァシーリー2世を支持したため、この両者が亡くなる1430年代初頭までは、ユーリー側とヴァシーリー2世とのあいだで戦端は開かれなかった。 しかし、ヴァシーリー2世の結婚式において、その母親ソフィヤがヴァシーリー・コソイの黄金のベルトを奪うという侮辱行為をしたことが原因で、両陣営は軍事衝突にいたる。そうしたなかで、ヴァシーリー2世は敗れ続け、ユーリー公は最終的に1434年にモスクワに入り大公になったが、ユーリーの家臣に地位を奪われることを恐れたモスクワ士族たちがヴァシーリー2世を支持したためユーリーの支配は長続きしなかった。
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