黒沢元治(日本)
2輪レースで活躍したあと、日産のオーディションに合格し、1965年にブルーバードで4輪デビュー。67年にはフェアレディで全日本選手権制覇。68年以降は日産のワークスドライバーとしてR380やR382を駆って活躍。69年の日本GPをR382で制した。日産がスポーツプロトタイプから撤退したあとはツーリングカーで活躍したが73年に退社。同年、ヒーローズレーシング所属、富士GCや全日本F2000に参戦し日本GPにマーチ722で優勝したほか、富士GCでも2勝をあげた。だが、自らのチームを立ち上げた74年、6月の富士GCでスタート直後に起きた事故の責任を追及されてライセンスを返上。75年の富士GC最終戦でカムバック、その後GCとF2000、F2に参戦。開発能力を買われて新型車やタイヤのテスト、自動車評論の世界で現在も活躍中。
黒澤元治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 01:50 UTC 版)
黒澤 元治(くろさわ もとはる、1940年8月6日 - )は、日本の自動車評論家であり、元・レーシングドライバー。
- ^ スバル・インプレッサ 22B-STiバージョンに試乗した際に、「ユーザーを馬鹿にした単なるオタク車。キチンと車を作って欲しい」と述べ、マツダ・RX-7(FD3S)のタイプRZ(初期)に試乗した際は、「タイヤがプアになって、ボディやサスペンションの粗が目立たなくなっただけ。そんなにタイヤを軽量化したいならタイヤを細くすれば良い。タイヤの重要性を理解していない」と述べている。また「ターボや4輪駆動、ロータリーエンジンは好まない」と、同ビデオで何度も発言している。
黒沢元治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 08:49 UTC 版)
他チームで国内2輪レース活動を行った後、1965年に日産宣伝部チームに加入。鈴木誠一の同僚になったのを期に城北ライダースのチーム員に編入される形となり、都平健二と同様、数年間は4輪レースと2輪レース(モトクロスやロードレース)を並行して行っていた。
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