雑誌『美麗島』
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1979年5月中旬、黄信介は新雑誌創刊を申請し、6月2日に『美麗島』雑誌社が台北市に設立された。7月9日の社内会議の結果、雑誌社長に許信良を選出し、副社長として呂秀蓮、黄天福を、編集長に張俊宏を、総経理に施明徳を選出した。当時『美麗島』の下には党外各派の活動家が集結し、当時統一派社会主義集団であった「夏潮」や、康寧祥を代表とする穏健派が内包されたが、施明徳ら急進派が主流を占めていた。 施明徳は後日投獄された際、『美麗島』創刊の目的は無党名の政党を結成することであり、国民大会と地方首長の改選を主張することにあったと述べている。しかし同時期「反共義士」を自認する勢力により雑誌『疾風』が創刊され『美麗島』と激しい論戦が繰り広げられ、論戦は次第に過激化し、言論のみならず暴力手段によって『美麗島』事務所が攻撃を受ける事件も発生した。「反共義士」は民間団体であると主張していたが、政府の指示の下『美麗島』を攻撃していた可能性は排除されていない。 雑誌『美麗島』の知名度は日を追うごとに高まり、1979年11月には8万冊の発行部数を記録、11月20日には「美麗島政団」により台中にて「美麗島之夜」なる活動を行い、式典の中で世界人権デー当日に高雄でデモを行なうことを決定した。しかしこの時、『美麗島』の高雄事務所は既に2回の襲撃を受けており、また黄信介の私宅も攻撃を受けるなど、『美麗島』と周囲には緊張が高まっていた。
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