閼与の戦い
閼与の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 02:22 UTC 版)
紀元前280年、趙奢は将軍として斉の麦丘を攻め取る戦功を上げ、武人としても着目されるようになる。 紀元前269年、秦は将軍公孫胡昜に命じて趙南部の閼与の地に侵攻する。廉頗と楽乗は救援は不可としたが、趙奢は「閼与への道は険しくて狭いので、丁度二匹のネズミが穴の中で1対1で戦うようなものです。将が勇敢な方が勝ちます。」と説き、恵文王はその意見を容れて趙奢を将軍に任じて、閼与への救援に向かわせた。 趙奢は邯鄲から30里の地に塁壁を築いて進軍を止め、閼与への救援を勧める者を斬った。その一方で秦軍の間諜をもてなして帰すなどして、秦軍の油断を誘う。そしてそれを見計らった所で閼与への救援へと向かい、軍士の許歴の進言を受けて北山の地をいち早く占拠し、秦軍に対して一気に攻撃をかけて秦軍を敗退に追い込んだ。 趙奢は恵文王からその戦功を大いに称えられ、廉頗や藺相如と同じ地位に昇格し、馬服君に封じられる。秦はこの三人が健在の間は、趙に攻め込む事が出来なかった。
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