長久手の戦いと北ノ庄城主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 15:39 UTC 版)
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、味方の軍は大敗を喫したが、自軍を三手に分け、余勢を駆った家康方の大須賀康高や榊原康政らを待ち伏せし、挟撃して敗走させた。その後、家康本隊とは戦わず退却する。 天正13年(1585年)に秀吉が関白になると、秀政は従四位下・侍従兼左衛門督に叙任。同年の紀州征伐(千石堀城の戦い、第二次太田城の戦い)や四国平定戦による軍功により丹羽長秀の遺領越前国北ノ庄に18万石を与えられた。与力に加賀小松の村上義明、加賀大聖寺の溝口秀勝が付けられた。天正14年(1586年)には、長谷川秀一とともに昇殿を許された。なお、秀政が各地を転戦している間、佐和山城には城代として父の堀秀重や弟の多賀秀種が在城して統治にあたった。
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