金膺禹とは? わかりやすく解説

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金膺禹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/22 06:30 UTC 版)

金 膺禹(きん・ようう、キム・ウンウ、朝鮮語: 김응우1848年6月17日 - 1878年10月4日)は、平安南道の小作農民、墓守。金輔鉉の父。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)国家主席金日成の曾祖父。国防委員長金正日の高祖父。本貫全州金氏。北朝鮮の正史や教科書ではジェネラル・シャーマン号事件の首魁とされるが、その伝記については北朝鮮のプロパガンダによる捏造が多く疑問視されている[要出典][1]。金正恩は来孫。


  1. ^ タイトル[リンク切れ]『壬辰倭乱の金応瑞将軍は、金日成の祖先か?』張海成(ジャン・ヘソン、장해성前半では、北朝鮮の歴史教育で「金日成の家は代々続いてきた革命家の家系」だったとしている件を取り上げ、現在は金日成の曾祖父の金膺禹以降の家系からしか教えないが、かつて党が「唯一思想体系」を考えた当初は、これを金應瑞まで接続して、「壬辰倭乱時に平壌まで侵攻してきた倭将小西飛騨守(内藤如安)の首を刎ねた、金應瑞将軍は金膺禹の何代前の先祖である…」と、解説されたことがあるが、大韓民国の歴史学者によると、「金日成の金姓は全州金氏であり、金応瑞の金姓は金海金氏であり、全州金氏は新羅王族の末裔、金海金氏は金官伽耶王族であるため、どのように系譜を辿っても金日成が、金応瑞の子孫となることはあり得ない」と虚偽を暴露されてからは、金膺禹以降の系譜しか教えなくなった件を取り上げ、後半では金膺禹が、ジェネラル・シャーマン号事件で民衆を率いたにしては、年齢が若すぎる点、当時の記録に無い点などを取り上げて虚偽を解説している。また内藤如安が斬首された史実はなく、撤退後、1600年には主君小西行長の下関ヶ原の戦いに西軍として参陣。西軍は敗れたものの東軍前田利長の客将に迎えられ、敗軍の将として処罰されることもなく金沢に居した。1613年江戸幕府よりキリシタン追放令が出されると、キリシタンであった如安にも累が及び、翌1614年高山右近らとともにマニラに追放された。同地では日本人町を建設し、1626年に77歳の天寿を全うしている。
  2. ^ 『ドキュメント・金日成の真実-英雄伝説「1912年-1945年」を踏査する』によると、金日成の生い立ちについて「彼(金日成)の生家が墓守りという朝鮮王朝時代の身分階層上の『賎民』であり、伯母の玄養信が同じく『八賎(代表的賎民)』の一つムーダン(巫堂)だった…」とある文章による。
  3. ^ 北朝鮮の歴史教育は、『ウィヒョク(金日成の革命歴史)』、『チンヒョク(金正日の革命歴史)』、『オヒョク(金正淑の革命歴史)』の丸暗記であり、これによって受験の合否が決定される。


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