北朝鮮の三・一独立運動に対する歴史解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 00:10 UTC 版)
「金亨稷」の記事における「北朝鮮の三・一独立運動に対する歴史解釈」の解説
柳寛順などが三・一独立運動の主要人物として評価されている大韓民国やその他の国々の歴史観とは異なり、北朝鮮では、「三・一独立運動は金日成の父・金亨稷を先頭に、平壌から展開された」と宣伝されている。また、「ジェネラル・シャーマン号事件の撃退に対して金日成の曾祖父金膺禹が主導した」と主張している。 北朝鮮では、1970年代後半までは、三・一独立運動について、「ロシアの10月革命の影響を受けて、数十万のソウル市民が反日闘争を開始して発生したもの」と記述してきた。しかし、1980年からは、「平壌にあった崇徳女子校で、数千人が参加した中で、学生の代表が独立宣言を朗読しながら、起動されたと主張した。北朝鮮の宣伝媒体は、「この日の平壌では、昼12時の鐘の音を合図に、金亨稷が自ら育成した愛国的な青年学生と人民を先頭に、10万人の群集が『朝鮮独立万歳』、『日本人と日本軍は立ち去れ』というスローガンを叫びながら、激しいデモを繰り広げた」と主張を変更している。 北朝鮮の小学校と中学校では、「1917年に金亨稷先生が結成した『朝鮮国民会議』が三・一運動を主導した」と教えており、「柳寛順の抗日運動も、金亨稷が導いた結果」だと主張している。さらに「三・一運動当時、金日成が7歳の若さで、万景台から平壌城までのデモの隊列に率先して参加し、行進した」と述べている。 北朝鮮の教科書では、抗日の歴史とまったく関係のない、金日成の父・金亨稷や、祖父・金輔鉉などを抗日闘士の典型として記載し、金日成の家系を神格化し、金亨稷を『反日民族解放運動の共産主義運動に転換させた先駆者』と称賛している。
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