郡上藩主及び藩役人への判決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 18:17 UTC 版)
「石徹白騒動」の記事における「郡上藩主及び藩役人への判決」の解説
まず郡上藩藩主の金森頼錦は、郡上一揆及び石徹白騒動の責任を問われ、領地召し上げ、盛岡藩預かりを言い渡された。ここに名門金森家は大名家としては断絶した。評定所の判決では、大規模な百姓一揆であった郡上一揆に関する藩主としての責任は、主に郡上藩領の年貢取立てに関する問題解決を幕府権力の介入で解決しようとしたという筋違いを問われたが、石徹白騒動についての責任は、騒動に当たり反豊前派の訴えに全く耳を貸そうともせず、石徹白豊前側の言い分のみを聞いた結果、豊前の石徹白での専横を許し、大勢の社人の追放という事態を招いた責任を厳しく問うた。 郡上藩家老職の渡辺外記、粥川仁兵衛への判決は遠島であった。両名については郡上一揆についての責任も問われたが、石徹白騒動に関しては石徹白豊前から収賄した上に、やはり反豊前派の言い分を全く聞き届けずに騒動を激化させた責任を問われた。 寺社奉行の根尾甚左衛門への判決は、郡上藩の寺社行政の責任者でありながら石徹白豊前から収賄した上、豊前に対する告発があったのにもかかわらず全くそれを取り上げようとせず、大勢の社人追放という事態を招いたあげく、追放された社人の資産売却代金を着服したことを厳しく断じ、死罪とされた。また寺社奉行手代の片重半助についても、騒動に関して虚偽の吉田家からの指示を作成し、上役の根尾甚左衛門と同じく追放された社人の資産売却代金を着服した責任を問われ、やはり死罪となった。郡上一揆、石徹白騒動を通じ、死罪を言い渡された役人は根尾甚左衛門と片重半助のみであったが、両名とも実際には牢死しており刑の執行はなかった。 大目付の津田平馬は寺社奉行の根尾甚左衛門が病気療養中に寺社奉行の職を代行する中で、石徹白豊前から収賄し、やはり豊前の言い分のみを聞き、大勢の社人追放という事態を招いた責任があるとされ、中追放の判決を受けた。なお津田も牢死したため実際の刑の執行は行われなかった。
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