追放と死没
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/05 09:50 UTC 版)
「ヨハネス15世 (ローマ教皇)」の記事における「追放と死没」の解説
ヨハネス15世はシェル教会会議に抗するため、ローマでの教会会議開催を求めたが、ローマは遠くその道程は厳しいとして、フランス司教たちは参加を拒否した。それならばとヨハネス15世は再び特使を遣わして、ムーゾンでの教会会議開催を通達した。995年5月2日にムーゾン教会会議は開催された。だがフランス側司教はフランス王によって参加が禁止されており、弁明を求めるジェルベール1人のみの参加であった。ムーゾン教会会議ではアルヌルフ罷免の無効が再び宣言された。 しかし皇太后テオファヌが離れたローマでは、金銭欲が強く血縁者を優遇していたヨハネス15世に対するローマ市民の不満が募っており、995年から996年の間にヨハネス15世はローマから追放される。皇帝オットー3世はローマを回復しようと進軍し、ジェルベールは皇帝に随行した。だがヨハネス15世は皇帝がローマに到着するよりも前の996年4月初旬に熱病で死亡した。ランス大司教座の問題を解決する前に没することとなった。 ヨハネス15世の後任には、オットー3世によりオットー1世の曾孫ブルーノがグレゴリウス5世として選出された。
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