近代の倉野
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 01:55 UTC 版)
江戸時代には、薩摩国薩摩郡樋脇郷(外城)のうちであった。村高は「天保郷帳」では986石余、「郡村高辻帳」では986石余、「三州御治世要覧」では855石余、「旧高旧領取調帳」では848石余であった。 文禄年間以降、島津氏直轄領となっていたが、慶長18年(1613年)には入来院重高の領地となった。その後万治2年(1659年)には入来院から分離し再び薩摩藩直轄領となり、入来院のうち塔之原村、倉野村、市比野村、久住村、楠元村、中村の区域に新たに画された清敷郷のうちとなり、延宝9年(1681年)には清敷郷は樋脇郷に改称した。明治4年7月14日に廃藩置県が行われ薩摩藩は廃止され、鹿児島県に属することとなった。
※この「近代の倉野」の解説は、「樋脇町倉野」の解説の一部です。
「近代の倉野」を含む「樋脇町倉野」の記事については、「樋脇町倉野」の概要を参照ください。
- 近代の倉野のページへのリンク