辻新次
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辻 新次(つじ しんじ、天保13年1月9日(1842年2月18日) - 大正4年(1915年)11月30日)は明治時代の日本の文部官僚。旧松本藩士。男爵。号は信松。
- ^ 『官報』第1005号、大正4年12月7日。
- ^ 安倍季雄 編, p. 121, 『男爵辻新次翁』
- ^ 「(七十七)「辻理之助厄介」」(橋南漁郎著 『大学々生溯源』 大空社〈日本教育史基本文献・史料叢書〉、1992年2月、ISBN 9784872366112。初出は『東京日日新聞』 1910年5月17日)。
- ^ この時の同僚には、後に東京法学校の校長となる河津祐之がいた。「学制の制定」(文部省編 『学制百年史』 帝国地方行政学会、1981年9月)。
- ^ 『一橋大学年譜 I』 一橋大学、1976年3月、6-7頁[リンク切れ]。商法講習所は廃止決議により一旦廃止されていたが、農商務省が補助金9684円を支給することで、9月10日に復活した。なお、渋沢栄一も東京商法会議所の会頭として、農商務卿・河野敏鎌宛に補助金の下付を依頼している。ちなみに、この補助金下付を決定した河野敏鎌は、前年に文部卿として教育令改正を主導した人物であり、辻の上司でもあった。
- ^ 父の危篤により巡視を中止した文部大臣森有礼の代役として、各地を巡視した。(田中智子「第三高等中学校設置問題再考:府県と官立学校」『京都大学大学文書館研究紀要』第3巻、京都大学大学文書館、2005年3月、57-77頁、doi:10.14989/68853、hdl:2433/68853、ISSN 1348-9135。64-65頁)
- ^ 仏学会の名誉会員には、伏見宮貞愛親王、鍋島直大、蜂須賀茂韶、山田顕義、大木喬任、徳川昭武、ボアソナード、ジョルジュ・アッペール等が名を連ねている。和泉守信、明田川融 「仏学会・東京仏学校関係文書をひも解く」(『法政』第31巻第10号、法政大学、2004年12月)。[リンク切れ]
- ^ 『当世人物評』 1902
- ^ 『当世人物評』 1902, p. 173、『毎日新聞』に「当世人物評」を連載していた石川が著者だといわれる。西田長寿 「石川半山の人物評」(『明治文学全集 第92巻附録 月報58』 筑摩書房、1970年5月)2頁。
- ^ 同上、181頁。
- ^ 同上、177頁。
- ^ この小説の内容がどこまで実話であるかは定かでないが、前掲の『当世人物評』によれば、辻の生前から世間に知られた話だったようである。
- ^ 1987 1967
- ^ 前掲、大日本教育会・帝国教育会東京府会員ファイル1。
- ^ 『昭和新修 華族家系大成』。『大正過去帳』 東京美術、1973年。
- ^ 『官報』第4001号、明治29年10月28日。
- ^ 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
- ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
- ^ 『官報』第2824号「叙任及辞令」1892年11月25日。
- ^ a b 『官報』第1001号「叙任及辞令」1915年12月2日。
- ^ 『官報』号外「叙任」1886年12月28日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『官報』第2205号「彙報 - 官庁事項 - 褒章 - 藍綬褒章下賜」1890年11月4日。
- ^ 『官報』第6138号「叙任及辞令」1903年12月16日。
- ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第7641号「叙任及辞令」1908年12月14日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1916号「叙任及辞令」1889年11月15日。
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