寺島健とは? わかりやすく解説

寺島健

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/31 22:08 UTC 版)

寺島 健(てらしま けん[3]1882年明治15年)9月23日 - 1972年昭和47年)10月30日)は、日本海軍軍人政治家海軍中将予備役となったのち、東條内閣逓信大臣鉄道大臣を務めた。


  1. ^ 日清戦争を連合艦隊旗艦「松島」艦長として戦った海軍中将(『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』)。
  2. ^ 両名はお互いの葬儀委員長を務める約束を交わしており、長谷川が没した際、寺島はその約束を果たした。
  3. ^ 航海科を専攻する士官用の専門課程。
  4. ^ この時期の海大については不明であるが、海大で好成績を得るには教官の意に逆らうことは不利であった(吉田俊雄『海軍参謀』)。海大首脳の機嫌を損ねたため席次を引き下げられた者がいたことは、教官経験者の高木惣吉も自身の体験として書き記している(『自伝的日本海軍始末記』)。
  5. ^ 部隊人員の人選は加藤友三郎海相が行った。なお「鹿島」艦長の小山武は砲術出身者、「香取」航海長雪下勝美は海大専修学生の首席卒業生である。参謀には住山徳太郎阿部弘毅宇垣完爾もいた。
  6. ^ 寺島は加藤友三郎や財部の軍部大臣は武官が適当との考え方に賛成であった。人事権を有する大臣は武官でなければ、人材評価ができないと考えていたためである。
  7. ^ 加藤寛治や末次信正第一班長(作戦部長)は改正実現は難しいと述べていた。加藤友三郎海相は佐藤次長に対し在任4か月で転任処置をとった。
  8. ^ 岡田啓介加藤寛治安保清種山本英輔の四名。岡田は伏見宮に傷をつけないよう気を付けるということで賛成したと語っている。
  9. ^ 伏見宮の海軍軍令部長就任は陸軍の閑院宮載仁親王参謀総長に対抗する意味があるとされるが、伏見宮自身は否定している。なお元老西園寺公望は、皇族をトップに据えることに憂慮を示していた。
  10. ^ 南雲の交渉態度は脅迫と伝えられるほど強硬であったが、嶋田繁太郎の場合は穏和なものであった。井上は嶋田について「理屈がわかった」と語っている。
  11. ^ 金沢正夫は、この書類の作成にあたった当時の軍令部第一班長直属部員である。書類提出を命じられた大角海相と鈴木貫太郎侍従長が話し合い、その場で大角の意向を確認しつつ作成した。この証言をした当時の海相秘書官矢牧章は、大角に随行しこの場に居合わせていた。なお『井上成美』と『金沢正夫伝』では、作成した書類の受領日が異なる。
  12. ^ 伏見宮は井上の姿勢を気に入り、ポストに配慮するよう指示している。二・二六事件で井上横須賀鎮守府参謀長は麾下の艦船を東京湾に急行させようとしたが、軍令部によって差し止められた。この改正によって海軍省から軍令部へ警備派兵の権限が委譲されていたためである。
  13. ^ 艦隊派の影響を受けた東郷平八郎は谷口の姿勢にあきたらず、大角らを前に谷口を面罵した(『歴史のなかの日本海軍』105頁)。第三次近衛内閣の海相であった及川古志郎は、海軍は戦えないと明言できなかった理由にこの出来事を挙げている。
  14. ^ 山下と加藤寛治は友人関係にあった。
  15. ^ 『寺島健伝』では6月15日。
  1. ^ 『寺島健伝』8頁
  2. ^ a b 『大衆人事録 東京篇』(第13版)「寺島健」
  3. ^ 秦 2005, p. 230, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-寺島健
  4. ^ 『寺島健伝』9頁
  5. ^ 『寺島健伝』10頁
  6. ^ 鎌田芳朗『海軍兵学校物語』(原書房)、146頁
  7. ^ 『寺島健伝』273頁
  8. ^ 『寺島健伝』では約2500名。
  9. ^ 『海軍兵学校物語』214頁
  10. ^ a b 『海軍兵学校沿革』「明治三十三年十二月十七日」
  11. ^ 『海軍兵学校沿革』「明治三十六年十二月十四日」
  12. ^ 『寺島健伝』19頁
  13. ^ 『長谷川清傳』序16頁
  14. ^ 『寺島健伝』39頁
  15. ^ 『寺島健伝』34頁
  16. ^ 『寺島健伝』67頁
  17. ^ 『寺島健伝』154頁
  18. ^ 『海軍と日本』83頁
  19. ^ 『寺島健伝』65-66頁
  20. ^ 『寺島健伝』68頁
  21. ^ 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』巻末附録
  22. ^ 『寺島健伝』74頁
  23. ^ 『寺島健伝』82頁
  24. ^ 『寺島健伝』83頁
  25. ^ 『寺島健伝』85頁
  26. ^ 『寺島健伝』105頁 
  27. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群(上)』(文春文庫)、134頁
  28. ^ 『寺島健伝』113-115頁
  29. ^ 『寺島健伝』117頁
  30. ^ 実松譲『最後の砦 提督吉田善吾の生涯』(光人社)、176-177頁
  31. ^ 『寺島健伝』301-302頁
  32. ^ 『寺島健伝』107頁
  33. ^ a b 『寺島健伝』129頁
  34. ^ a b 『歴史のなかの日本海軍』49-50頁
  35. ^ 『海軍を斬る』、99-100頁
  36. ^ 『寺島健伝』271頁
  37. ^ 『寺島健伝』119頁
  38. ^ 半藤一利秦郁彦戸高一成、横山恵一『歴代海軍大将全覧』(中公新書ラクレ)、233頁
  39. ^ 『歴史のなかの日本海軍』52-53頁
  40. ^ 『歴史のなかの日本海軍』53頁
  41. ^ 『歴史のなかの日本海軍』54-55頁
  42. ^ 『歴史のなかの日本海軍』55頁
  43. ^ 『山本五十六再考』59-60頁
  44. ^ 『歴史のなかの日本海軍』61頁
  45. ^ 『寺島健伝』137頁
  46. ^ 『歴史のなかの日本海軍』61-63頁
  47. ^ 『歴史のなかの日本海軍』66-67頁
  48. ^ 秦郁彦『昭和史を縦走する』(グラフ社)、52-72頁
  49. ^ 『山本五十六再考』32頁
  50. ^ 『歴史のなかの日本海軍』64-66頁
  51. ^ 『井上成美』143頁
  52. ^ 『井上成美伝』142-143頁
  53. ^ 『井上成美』資-99
  54. ^ 『歴史のなかの日本海軍』69頁
  55. ^ 『歴史のなかの日本海軍』68頁
  56. ^ 『寺島健伝』68-69頁
  57. ^ 『歴史のなかの日本海軍』70頁
  58. ^ 『歴史のなかの日本海軍』71頁
  59. ^ 『井上成美』145頁
  60. ^ 金沢正夫伝刊行会『金沢正夫伝』86-90頁
  61. ^ 『寺島健伝』289頁
  62. ^ 『寺島健伝』297-298頁
  63. ^ 『歴史のなかの日本海軍』70-71頁
  64. ^ 『井上成美』資-12
  65. ^ 実松譲『新版米内光政』(光人社)、110頁
  66. ^ 『井上成美』144頁
  67. ^ 『歴史のなかの日本海軍』105頁
  68. ^ 『日本の海軍(下)125頁』
  69. ^ 『寺島健伝』125頁
  70. ^ 『海軍を斬る』104頁
  71. ^ 『寺島健伝』158頁
  72. ^ 杉本健『海軍の昭和史』(文芸春秋)、29頁
  73. ^ 『寺島健伝』163頁
  74. ^ 『寺島健伝』198頁
  75. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、665頁。NDLJP:1276156 
  76. ^ 『歴史の中の日本海軍』56頁
  77. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、52頁。
  78. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、53頁。
  79. ^ 『官報』第6387号「叙任及辞令」1904年10月12日。


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