辛評の家族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 07:58 UTC 版)
この後、辛評本人の事跡は史書では見当たらなくなり、その家族の動向が綴られている。 平原に追い詰められた袁譚は、郭図の進言もあって曹操への一時降伏を得策だと考え、郭図の推薦により辛評の弟の辛毗を使者として曹操の陣へ送り込んだ。結果、和睦は認められたが、辛毗はそのまま曹操の家臣として留め置かれた。 建安9年(204年)2月、袁尚軍の審配が鄴を守備するようになると、審配は郭図と辛兄弟への恨みを募らせていたため、城内に残されていた3人の家族を捕えようとした。この時、郭図と辛毗の家族がうまく脱出できたが、辛評の家族は収監されてしまった。辛評の家族は、審配が曹操軍との篭城戦を戦っていた最中に、尽く処刑された。審配が最後に敗北して曹操軍に捕えられると、辛毗は審配の処刑を強く望み、これを曹操に容れさせている。 翌10年(205年)正月、袁譚と郭図は南皮で曹操に攻め滅ぼされた。しかし、この時点まで辛評が袁譚らと命運を共にしていたかどうかはわからず、もっともそれ以前に、南皮の戦いが開始された時点での生死すら、史書からは窺い知れない。
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