辛亥革命、護国戦争での活動
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「張耀曽」の記事における「辛亥革命、護国戦争での活動」の解説
公立京師大学堂(北京大学の前身)を卒業した後に日本に留学した。第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部に入学する。この間に中国同盟会に加入し、雑誌『雲南』の創刊に参加した。 辛亥革命が勃発すると、張耀曽は学業の途中で帰国する。帰国後は革命派の雲南代表として中華民国臨時約法の起草に参与した。臨時参議院が成立すると、議員兼法制委員長に任ぜられている。1912年(民国元年)、国民党に加入した。翌1913年(民国2年)には国会衆議院議員となり、後に憲法起草委員会委員となった。しかし同年の二次革命(第二革命)で革命派は袁世凱に敗北し、張はその後も民憲党などで活動を続けたが、国会は11月に停会してしまう。 張耀曽は日本に亡命して東京帝国大学に復学し、この間に欧事研究会に加入した。1914年(民国3年)に卒業し、帰国後は北京大学法科教授となる。袁世凱が皇帝に即位すると、張は護国戦争で反袁の護国軍に加わり、軍務院秘書・雲南都督府参議をつとめた。
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