転向と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/03 08:30 UTC 版)
これにより袁祖銘は、生き残りを図るために広州国民政府に転じる。同年10月に袁は、国民革命軍第12軍軍長兼左翼軍前敵総指揮として北伐に参戦することになった。しかしこの人事は、国民革命軍第8軍軍長(当時、武漢国民政府の主力部隊)である湘軍(湖南軍)指揮官・唐生智の反発や猜疑を招いた。唐は、袁に湖南省の統治権を奪われまいと考えることになる。また、部下であった王天培、彭漢章よりも国民革命軍への参加が遅く、中国国民党との関係が薄かったことは、蒋介石の疑念も呼んだ。 その一方で袁祖銘の側にも、国民革命軍参加直後でありながら早くも不穏な動きはあった。中国青年党に属していた部下の趙毓松から、孫伝芳・呉佩孚と反共の同盟を結び、容共の武漢国民政府を転覆するようにとの進言を受けていたのである。そして、袁自身もこれに乗り気で、転覆計画の準備を進めていたとされる。 1927年(民国16年)1月31日、袁祖銘は、唐生智配下の師長周斕に常徳で偽って歓待されたところを急襲され、殺害された。蒋介石の承認を得た唐の指示による粛清であった。享年39。
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