路線認可から頓挫へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/11/11 15:39 UTC 版)
当時は明治時代より続く分県・移庁騒動が戦後初めて激化し、県内において南北の関係が思わしくなかったため、上田松本電鉄は県関係者からも歓迎された。このため1949年には長野県営鉄道として建設するという決議が議会でなされたほどであったが、両社はあくまで私営での建設にこだわり、1952年に運輸省(現:国土交通省)から路線建設の認可を得るに至った。ところが、建設を始めようとしたところトンネル工事の困難さに阻まれて起工することすらままならず、右往左往するうちに千曲自動車(現:千曲バス)が上田 - 松本間のバス路線運行を開始してしまった。このバス路線は松本電気鉄道との共同運行であったため、松本電気鉄道もバスにシフトしていき、また上田丸子電鉄も鉄路建設を既成路線の連絡線にシフト(※これらも未成線となる)していったため、1960年頃には計画自体が消滅した。
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