講武所時代
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安政3年(1856年)3月、27歳のときに男谷の推薦によって講武所の剣術教授方となる。後に師範役に進む。 安政7年(1860年)2月、講武所が築地から神田小川町に移転した際、2月3日の開場式に将軍徳川家茂、大老井伊直弼ら幕閣が臨席して模範試合が開かれた。鍵吉は槍術の高橋泥舟(謙三郎)と試合する。すでに高橋は井戸金平と対戦して、相手の得意技である足がらみで勝ち、席を湧かせていた。鍵吉は高橋に勝って、満座の喝采を浴びた。これを家茂が気に入り、鍵吉は将軍の個人教授を務めるようになる。 文久3年(1863年)、将軍上洛に供をして上京。二条城内で新規お召し抱えの天野将曹(将監とも)と試合して勝つ。天野は男谷派の同門だが、新規お召し抱えの意地もあって「参った」と言わず、それならばと鍵吉は激烈な諸手突きをくわせて天野をひっくり返したという。また、京都の四条河原で土佐藩浪士3人を斬ったともいう。 慶応2年(1866年)7月、家茂が大坂城で死去すると、江戸に戻る。11月に講武所が陸軍所と改称、組織替えになると、職を辞して下谷車坂に道場を開く。
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