説成親王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 16:24 UTC 版)
説成親王[1](かねなりしんのう、生没年不詳)は、南北朝時代から室町時代にかけての南朝の皇族。後村上天皇の第六皇子で、長慶天皇・後亀山天皇の弟と推定される。母は不詳[2]。子に聖淳がいる。官職は上野太守で、上野宮(こうずけのみや)・福御所と号した。本来の諱[1]は懐成(かねなり)・懐邦(かねくに)[3]。
- ^ a b 「説成」「懐成」「懐邦」と3種の諱が伝わることについて、小木喬によれば、初め「懐成」と名付けられたが、仲恭天皇の諱と被ることに気付いて「懐邦」に、さらに音の通ずる「説成」に改めたためという。ただし、田代圭一の指摘によると、「説成」の文献上の初出は江戸初期写の吹上本『帝王系図』付紙とのことだから、本来の諱は『新葉集』に見える「懐成」「懐邦」であったと考えられる。したがって、根本史料に即した場合、そのまま懐成親王あるいは懐邦親王を用いるべきであるが、一般に流布している人名辞典・系譜類においてはなお説成親王の見出しで掲載されていることが多い。そのため、本項記事名の採用に当たっても後者の方が相応しいと判断した。
- ^ 南朝系図によれば、越智家栄の女の冷泉局(新待賢門院冷泉局)である。
- ^ 『系図纂要』『南山小譜』などは、懐邦親王を後二条天皇の曾孫、邦良親王の孫、邦世親王の子に位置付け、説成親王とは別人とする。
- ^ 小川剛生 「伏見殿をめぐる人々 ―『看聞日記』の人名考証―」(森正人編 『伏見宮文化圏の研究 ―学芸の享受と創造の場として―』 文部省科学研究費補助金研究成果報告書、2000年)。
- ^ 『大乗院日記目録』同年8月19日条
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