世明王
世明王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:20 UTC 版)
初代親王の子。世明宮とも。程なくして出家した父の跡を継いで、実質的に宮家の当主として行動したのは、この世明王であったらしい。応永19年(1412年)正月新年参賀のために幕府御所へ赴き、同21年(1414年)4月の義満七回忌には玉川宮(長慶天皇の皇子)とともに供物を、同27年(1420年)5月の義満十三回忌には後亀山法皇とともに供物を献じた。同30年(1423年)2月には前円満院宮(円悟か)との確執から刃傷に及び、宮を殺害して自らも負傷するという一件が起こったが、これについて、村田正志は「当時における皇位継承に関する御意見の相違に基づくものであつたか」と憶測している。正長2年(1429年)3月足利義教の将軍宣下には使者阿野実治をしてこれを賀し、その際万里小路時房から当時出奔していた小倉宮の動向について尋ねられたが、実治は承知していないと答えた。なお、同年8月と翌年7月の義教右大将拝賀には同じく実治をして太刀を進上している。永享2年(1430年)2月には小倉宮の帰洛が現実味を増して、その料所(領地)が問題となった際、護聖院宮が既にこれを領していたために替地がなかったという。翌3年(1431年)11月には自ら将軍義教の許へ参向し、宮笥・馬1疋・太刀・折紙を進上した。永享5年(1433年)4月に卒去。
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