角松とは? わかりやすく解説

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角松敏生

(角松 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/22 21:39 UTC 版)

角松 敏生(かどまつ としき、1960年8月12日[5] - )は、日本の歌手シンガーソングライターミュージシャン音楽プロデューサー


注釈

  1. ^ シティ・ポップの代表的人物としてメディアや書籍で頻繁に取り沙汰されているが、角松自身はシティ・ポップと言う表現を快く思っていないと発言している[8]
  2. ^ その為、「好きなギタリストは誰ですか」との質問に対し角松は「はっぴいえんどの鈴木茂さん」と回答している。
  3. ^ デビュー前の1979年、当時年上の彼女と別れて心を痛めていた友人の為に作った曲。
  4. ^ プロモーション用のデビューシングル盤のジャケットには名前でなく“T.K”とだけ明記され、裏面のクレジットも“唄)T.K”、“T.K作詞・作曲”と記載されていたほか、“新鮮なうちにお聴き下さい。〜新鮮保証56.5.10迄〜”、“T.Kとは、RCAがお届けするシティ・ポップスのビッグ・ニュー・アーティストです”、“T.Kの音楽の基本は16ビートです”、“T.Kの音楽性の高さがコンテンポラリー・サウンドを裏づけています”、“T.Kの音楽はシンプルなメッセージを持っています”といったキャッチコピーが掲載されていた。
  5. ^ 藤田浩一のほうもデュオを考えていた。想定されていた相方は、元レイジー井上俊次。角松はソロデューを希望しており、結果RVCからのソロデビューとなった。(書籍『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』より)なお、井上俊次側も、1週間ほど共同生活をした上で、彼とは組めないと断った、と語っている。日本経済新聞社・日経BP社. “レイジー解散で新グループ 「ポッキー」から井上へ|出世ナビ|NIKKEI STYLE”. NIKKEI STYLE. 2021年10月2日閲覧。なお、テイチクレコードのプランはメンバーチェンジし、82年デビューの「STEP」として結実する。
  6. ^ RVCには角松が憧れていた山下達郎がいて、所属レコード会社の選定においては、このことが決め手となった。しかし、角松は西城秀樹などアイドル歌手が所属していた歌謡曲専門の部署(第2制作セクション。ちなみに第1制作は演歌担当の部署)が担当で、一方の山下は当時ニューミュージック系の社内レーベル、エアー・レーベルを擁する部署(第3制作セクション)が担当していたことで、歌謡曲の部署が仕立てた“山下達郎のニセモノ”を巡っての社内政治の渦中に巻き込まれてしまう。そのため、自身が希望していたエアー・レーベル側との交流や協力はほとんど受けられなかったばかりか、反目の対象にまでされてしまった。レコード制作会社内の仕組みを知らなかった当時20歳そこそこの角松はプロデビューしたことを後悔することもあったという。これらの経緯は、後年に当時RVCの主査で、エアー・レーベルの創設者、チーフ・ディレクターだった小杉理宇造から直接聞いた(書籍『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』掲載のインタビューでの証言)。結局角松は、1982年秋に小杉がムーン・レコードを設立して山下とスタッフを引き連れ移籍した後、担当ディレクターだった岡村右(元パープル・シャドウズ)と共にエアー・レーベルを引き継ぐこととなった。
  7. ^ 当時スタジオミュージシャン・ディレクターとして活動し、デビュー準備段階でデモテープ製作を手伝った志熊研三に第1作のサウンドプロデュースを角松自身が依頼した。志熊は一部楽曲のアレンジを含めて引き受けたものの、志熊にとってメジャーでの初仕事だったため、先輩の大物ミュージシャンばかりを纏めるのが大変だったという。また志熊との間には編曲で意見の相違があり、一部楽曲では所属事務所の社長だった藤田浩一に判断を仰いだことを角松自身が振り返った。その一方では志熊に対して感謝していることも述べている(書籍『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』掲載のインタビューでの証言)。
  8. ^ 角松自身はライブ活動で力量を上げることを希望したが、事務所側は先ずメディアへの露出で知名度を上げる方が大事と考えていた。この手法を「以前トライアングルがレイジーで成功した手法だね。(トライアングル所属だった)杉山清貴とオメガトライブがいい例だけど…」と解説した(『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』より)。
  9. ^ 2作目のシングル「FRIDAY TO SUNDAY」は、日本航空のキャンペーン&CF曲に決まっていたものの、発表直前に起きた日航羽田沖墜落事故の影響で、日本航空のプロモーション活動が自粛となり、結果立ち消えとなった。
  10. ^ RVC側はアミューズに入れたかったと角松は書籍『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』掲載のインタビューで証言している。
  11. ^ これは当時杏里への楽曲提供がきっかけで、アミューズ側からも杏里が所属していたマーマレードへ移籍したほうが角松は合っているのではないかと薦められたことによる。また、マーマレードの社長だった梶岡勝は、退社したトライアングルの社長・藤田浩一と仲が良かったという(『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』のインタビューより)。
  12. ^ 同時期からMacPlusを使用し打ち込みを始め1980年代中盤の数年間相当打ち込みに興じていたが、何でも出来る為飽き出し、1990年以降は生のミュージシャン演奏の方へ戻っていったと語っている。
  13. ^ 第1弾は4月21日に、その年の2月5日に発表した自身のアルバム『BEFORE THE DAYLIGHT〜is the most darkness moment in a day』からリミックスした12インチシングル二枚とそれを統合したゴールドCDによる企画盤『VOICES FROM THE DAYLIGHT ~GOLD 12inch Items』ではあるが、自身以外の他アーティストとしては以前から角松の自身名義の作品やプロデュース作品に多数参加し、ブラス編曲も手掛けるスタジオ・ミュージシャンのトランペッター数原晋を中心に結成されたビッグ・バンド、「TOKYO ENSEMBLE LAB」(トーキョー・アンサンブル・ラボ)が実質的な第1弾。デビュー・アルバムでもある『BREATH from THE SEASON』(1988年7月21日発売)に角松はプロデュースの他に、先行でシングルカットされた「LADY OCEAN」などの楽曲提供と演奏にも参加。ゆえに角松色は強く、絶頂期の作品だけに成功を収めた。なお、オーン・レーベルの名義による作品は1994年までリリースされることになり、その後は同じレコード会社内に新たに作った私設レーベル「iDEAK」に引き継がれる。
  14. ^ 同公演が収録された映像作品『TOSHIKI KADOMATSU 1993・1・27 FINAL CONCERT TOUR Vol.2』には、「ガタガタ言ってないで、続けりゃいいんだよ!」という観客からの罵声に苛立ち、モニタースピーカーを蹴りつける場面が映されている。
  15. ^ 角松のバックバンドのメンバーのなかでは一番の古参で、1981年にデビュー直前の逗子のレストランで行われたプロモーション・ライブにも参加していた。80年代後半から角松はバックバンドのメンバーに対して恩返しの意味合いもかねて、オーン・レーベルと“角松敏生プロデュース”という自身のネームバリューを使ってメンバーらのソロや在籍グループのアルバムを出していたが、奇しくも一番古い付き合いの友成のが最後となった。
  16. ^ 角松が由利徹のファンであったため、彼の持ちギャグ「オシャ、マンベ」からとられた[12]
  17. ^ これについて角松は、「シングルを出してもあとでアルバムにも収録されるから、アルバムを売りたかった」と語っている。
  18. ^ 角松自身は、これらのアルバムを「企画盤」と呼んでいる。
  19. ^ のちに、CDよりも音質が良いという理由から、Blu-ray Discの必要性についても語っている。実際に、「音楽を聴くためのブルーレイ」を発売している。
  20. ^ 無圧縮・可逆圧縮(FLAC)・高解像度(ハイレゾ)音源が本格的に配信されるようになったのは、2010年代に入って以降である。

出典

  1. ^ a b 角松敏生(カドマツトシキ)の情報まとめ”. OKMusic. ジャパンミュージックネットワーク株式会社. 2021年6月27日閲覧。
  2. ^ a b 角松敏生 - プロフィール”. CDJournal. 株式会社シーディージャーナル. 2021年6月27日閲覧。
  3. ^ a b c 角松敏生”. 音楽ナタリー. 株式会社ナターシャ. 2021年6月27日閲覧。 “高品質なシティポップサウンドで注目を集め、その後もファンクやダンスミュージックの要素を取り入れつつ、日本の音楽シーンを牽引する存在に。”
  4. ^ 角松敏生 presents FUSION BEST COLLECTION”. CDJournal. 株式会社シーディージャーナル. 2021年6月27日閲覧。 “フュージョン系のギタリストとしても人気がある角松”
  5. ^ a b c 『DJ名鑑 1987』三才ブックス、1987年2月15日、55頁。NDLJP:12276264/28 
  6. ^ a b c d e 伊藤強 (1983年7月9日). “【ステージON&OFF】 『気楽に音楽をやる時代の人、角松敏生』”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 8 
  7. ^ a b c d 「〈Part 1〉フィーチャリング・アーティスツ――角松敏生」(木村 2020, pp. 76–80)
  8. ^ a b レコードコレクターズ増刊シティ・ポップ1973-2019
  9. ^ 作家で聴く音楽 角松敏生”. 2021年10月4日閲覧。
  10. ^ 角松敏生ワークス-GOOD DIGGER-発売記念独占インタビューVol.1”. 2020年9月8日閲覧。
  11. ^ Guitar Labo『角松敏生さんインタビューVol.1』
  12. ^ 「作家で聴く音楽」 角松敏生日本音楽著作権協会。 - 2019年2月17日閲覧。
  13. ^ [1]





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