蒲生氏時代-一時的な廃城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 08:27 UTC 版)
奥州仕置によって、三春城は一旦は伊達政宗に預けられて片倉景綱が置かれたが、間もなく田村郡は蒲生領となり、田丸具直が城主となる。だが、理由は不明であるが遅くても文禄4年(1595年)までに田丸は守山城に移されて同年に豊臣秀吉の命によって三春城は廃城とされている。その後の田村郡は上杉領、再び蒲生領となっているが、慶長14年(1609年)までに守山城主であった蒲生郷成が再び三春城に移された。しかし、この年、郷成は津川城の岡重政との権力争いに敗れて出奔し、蒲生忠知(鶴松)が置かれるが、まだ6歳の忠知の統治は現実的では無いため、守役の蒲生郷治が城代となった。しかし、慶長18年(1613年)に岡重政が処刑されると、翌年には忠知・郷治が津川城に移されることになり、蒲生郷成の三春城復帰が認められたが、帰国途中で郷成が急死したために共に帰国した遺児の蒲生郷喜・郷舎兄弟が三春城に入った。しかし、2年後に蒲生兄弟は白河城の町野幸和と権力争いを起こして再び出奔したため、蒲生郷治が三春城に戻されている。
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