羽根谷の砂防と公園の歴史
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「羽根谷だんだん公園」の記事における「羽根谷の砂防と公園の歴史」の解説
羽根谷は昔から土石流の多発地帯であり、古くから砂防工事が行なわれていた。主な工事は以下のとおりである。 1704年(宝永元年 - 幕府の命により、羽根谷の川底の砂の除去、周辺民家の移動が行なわれた。 1754年(宝暦4年 - 宝暦治水の一環として薩摩藩により、羽根谷に砂留堤、石堤、川底の砂の除去が行なわれた。 1766年(明和3年) - 砂留堤の修理。 1717年(享保2年) - 川底の砂を除去。これ以降、羽根谷は、定州浚え(定期的に川底をさらえる工事)を行なう場所となる。 1815年(文化12年) - 川底の砂を除去。護岸工事。 1856年(安政3年) - 大垣藩により、羽根谷の位置をずらした。 1887年(明治20年) - 内務省により「木曽・長良・揖斐三大河水利分流計画」が着手される。オランダの技術者ヨハニス・デ・レーケがその工事に先立ち、羽根谷の調査を行なう。羽根谷の巨石積み堰堤はこの年に着工され、翌年完成する。 1994年(平成6年) - 羽根谷だんだん公園が完成。 1997年(平成9年)9月3日 - 羽根谷砂防堰堤(第一堰堤)が、国の登録有形文化財(建造物)として登録された。 2003年(平成15年)4月15日 - 羽根谷だんだん公園が岐阜県により、「飛騨・美濃さくら三十三選」に選定された。
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