羽根谷の砂防と公園の歴史とは? わかりやすく解説

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羽根谷の砂防と公園の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 07:56 UTC 版)

羽根谷だんだん公園」の記事における「羽根谷の砂防と公園の歴史」の解説

羽根谷は昔から土石流多発地帯であり、古くから砂防工事が行なわれていた。主な工事以下のとおりである。 1704年宝永元年 - 幕府の命により、羽根谷の川底の砂の除去周辺民家移動が行なわれた。 1754年宝暦4年 - 宝暦治水一環として薩摩藩により、羽根谷に砂留堤、石堤川底の砂の除去が行なわれた。 1766年明和3年) - 砂留堤の修理1717年享保2年) - 川底の砂を除去。これ以降羽根谷は、定州浚え定期的に川底さらえる工事)を行なう場所となる。 1815年文化12年) - 川底の砂を除去護岸工事1856年安政3年) - 大垣藩により、羽根谷の位置ずらした1887年明治20年) - 内務省により「木曽長良揖斐三大河水利分計画」が着手される。オランダ技術者ヨハニス・デ・レーケがその工事先立ち羽根谷の調査行なう羽根谷の巨石積み堰堤この年着工され翌年完成する1994年平成6年) - 羽根谷だんだん公園完成1997年平成9年9月3日 - 羽根谷砂防堰堤第一堰堤)が、国の登録有形文化財建造物)として登録された。 2003年平成15年4月15日 - 羽根谷だんだん公園岐阜県により、「飛騨・美濃さくら三十三選」に選定された。

※この「羽根谷の砂防と公園の歴史」の解説は、「羽根谷だんだん公園」の解説の一部です。
「羽根谷の砂防と公園の歴史」を含む「羽根谷だんだん公園」の記事については、「羽根谷だんだん公園」の概要を参照ください。

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