統一アルバ王国の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 04:39 UTC 版)
「スコットランドの歴史」の記事における「統一アルバ王国の成立」の解説
いまに伝わるケネス・マカルピンの伝説は、アルバ王国がどのようにして成立したかを説明している。それによれば、アイルランドから渡ってきたスコット人(英語版)のダルリアダ王国が、東のアルバ王国を征服し、ケネス・マカルピンはケネス1世としてアルバ王国の王位についたとされる。しかし、両者を比較したとき、ダルリアダ王国の劣勢はあきらかであり、この伝説の信憑性は低いとされ、婚姻によって統合されたとする説、アルバ王国がダルリアダ王国を征服して統一されたとする説などがあり、統一された見解は未だみられない。いずれにせよ両国は合併し、アルバ(アラパ)王国を名乗り、東岸地域のスクーンに首都がおかれた。また、最近の研究ではケネス1世没後、ピクト人の王があとを継いだと考えられている。 一方、スコットランド南西部は、638年ごろからアングル人のバーニシア王国ついでノーサンブリアの勢力下にあった。この地方がスコットランドに組み入れられるのは、1018年のマルカム2世の征服によってであった。このころにはオークニー諸島・ケイスネス・サザランドといった北部地域を除き、スコットランド王朝の支配下にあった。北部や島嶼地域は依然ノース人の勢力圏になっていた。 このころ確立されたタニストリーという王位相続制度によって、スコットランドは2つの家系が交互に王位を継承していた。タニストリーは王の生前から後継者を決めてあるため、後継者にしてみれば王の早逝が望ましかった。結果、王の暗殺事件が頻発することになる。戯曲「マクベス」は、こうした社会的背景によって起きた事件の物語である。
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