経営の難航
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/02 08:21 UTC 版)
創立初年には見物客だけでも9100人以上を集め、英照皇太后や皇后の行啓もたびたび受けるなど花やかなスタートを切った芝能楽堂だが、その経営は早くから難航した。 社員にはあまり観能に訪れない人も多く、また能楽師への舞台貸し出しも、準備の煩雑さに比べて利益が上がりづらいことから敬遠され、あまり流行らなかった。社員たちからの寄付も思うように集まらず、年に10回ほどの定期能を催すことさえ困難だった。 また芝能楽堂の維持それ自体も、大きな困難事だった。年200円近い借地料に加え、森林に囲まれた立地から湿気も多いことからその修繕費も少なくなく、また税金の支払いもかさんでいた。 1883年(明治16年)、岩倉が亡くなったことも大きな打撃となった。能楽社では岩倉に代わり三条実美を後援者に迎え、1887年(明治20年)には宮内大臣に「能楽保護請願書」を提出し、いくばくかの恩賜金を得たが、依然経営は厳しかった。 また皮肉にも「能楽再興」の進展が、その経営悪化に拍車をかけた。「三名人」の一人・梅若実は芝能楽堂開業以前から梅若舞台を自派の拠点として有していたが、1886年(明治19年)には宝生九郎率いる宝生流も松本金太郎家の舞台で「温古会」として活動を始め、1892年(明治25年)からは観世流の観世清廉、同年には喜多会もそれぞれ自前の舞台を建て独自の演能を展開するようになった。能楽社に参加する後援者たちも、次第に各人贔屓の流儀への支援に力を入れるようになっていき、さらに能楽社全体としての活動は停滞した。
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