第1白ロシア戦線のオーデル川への進撃
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「ヴィスワ=オーデル攻勢」の記事における「第1白ロシア戦線のオーデル川への進撃」の解説
ポーゼンを包囲した後、ソビエト第1親衛戦車軍はドイツ国防軍、国民突撃隊の各種部隊からのまばらな抵抗を受けながらオブラ川周辺の防衛を固められていた地域へ深く侵入していた。そこで激しい抵抗に遭遇したが、そこにはキュストリン要塞への侵入路が存在していた。 ドイツ軍は再編成を行い、ヴァイクセル軍集団を編成、防衛のために少数の予備部隊を生じることとなり、第VSS山岳軍団は2個予備歩兵師団を保持、オブラ川沿いに配置、「ティルシュティーゲル(英語版) 防衛線」として知られる戦前の国境線の防衛にはクーアマルク装甲擲弾兵師団が補強として配備された。 軍事歴史家アール・ジームキ(Earl Ziemke)は以下のように進撃を解説した。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}25日、ジューコフ配下の主力はポーゼンを通過、ベルリン東40マイルのオーデル川で真西へキュストリン方面へ進撃した。ソビエト赤軍の進撃は巨大な除雪機械のように見えた。そして、ワルシャワからポーゼン、そしてベルリンへと狙いを定めていた。ドイツA軍集団の全部隊が点と刃の間に挟まれ、オーデル川の対岸へ押し戻されていた。ドイツの右側にはヒトラーが数日前に編成したヴァイクセル軍集団と呼ばれる基幹軍集団以外、何も存在しなかった。 —Earl Ziemke 1945年1月25日、ヒトラーは3つの軍集団の名称を変更、北方軍集団はクールラント軍集団、中央軍集団は北方軍集団、A軍集団は中央軍集団とそれぞれ変更された。 第2親衛軍と第5打撃軍はほとんど抵抗を受けずにオーデル川へ到着、第5打撃軍所属部隊は凍った川を渡河、1月31日にはキーニッツ(ドイツ語版)を占領した。 ソビエト赤軍最高司令部は作戦が2月2日に終了したと宣言、ドイツ軍の防衛力が大幅に急速な衰えを見せたため、最初、ジューコフはベルリンへこのまま直接進撃することを望んでいた。しかし、ベルリンへの攻撃を行う前にポンメルンの第1白ロシア戦線のむき出しとなった北側面が受けたドイツ軍の反撃(ゾンネヴェンデ作戦(英語版))の為に、東ポンメルン攻勢でドイツ軍をポンメルンから片付けることが重要であるとソビエト赤軍最高司令部に確信させた。
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