第二次スコットランド独立戦争
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「スコットランド独立戦争」の記事における「第二次スコットランド独立戦争」の解説
「en:Second War of Scottish Independence」を参照 1329年、スコットランド王ロバート1世が死去し、長男デイヴィッド2世はわずか5歳で王位を継承した。ロバート1世によって所領を奪われていたベイリャル派の貴族たちは、1332年8月にジョン・ベイリャルの長男エドワード・ベイリャルを担いで反乱を起こした。ベイリャル派貴族率いる反乱軍はイングランド王エドワード3世の支援を受け、ダプリン・ムーアの戦い (Battle of Dupplin Moor) でスコットランド軍を破り、エドワード・ベイリャルはスコットランド王として戴冠した。 エドワード3世の後押しでスコットランド王位についたエドワード・ベイリャルは、イングランド王に臣従を誓い、南部諸州を割譲した。この行為はスコットランド王ロバート1世がスコットランド人民に誓ったアーブロース宣言に反する行為であり、これに怒ったジェームズ・ダグラスの弟アーチボルト・ダグラス (en) は同年12月に反乱を起こした。アーチボルト・ダグラスはアナン (Annan) でエドワード・ベイリャルを破り、敗れたエドワード・ベイリャルはイングランドへ逃れた。しかし1333年、アーチボルトはハリドン・ヒルの戦い (Battle of Halidon Hill) でイングランド王エドワード3世に敗れて戦死した。これを見たデイヴィッド2世は、1334年に王妃ジョーンとともにフランスへ逃れた。こうしてスコットランドは、デイヴィッド2世とエドワード・ベイリャルという2人の王がいるにもかかわらず、国内には王が不在という異常な事態となった。国王不在のスコットランドでは、デイヴィッド2世の甥ロバート・ステュアートが摂政として王国を守ることになった。 1337年、イングランドとフランスとの間で百年戦争が勃発した。フランス王フィリップ6世は、イングランドを北から牽制する目的でデイヴィッド2世のスコットランド帰国を後押しした。1341年、亡命先のフランスから帰国したデイヴィッド2世はフィリップ6世の要請に応えて、1346年10月にイングランド侵攻の軍を起こした。しかし、ネヴィルズ・クロスの戦いで大敗し、デイヴィッド2世はイングランド軍に捕らえられた。デイヴィッド2世はイングランドに護送され捕囚として過ごすこととなり、国王不在のスコットランドでは再びロバート・ステュアートが摂政として王国を守ることになった。なお、デイヴィッド2世は、前イングランド王の娘で現国王の末妹のジョーンを妻に持ち、自身もイングランド王家の血を引いているため、国王から厚遇されイングランドでの生活は比較的自由で快適なものだったという。 2人のスコットランド王(エドワード・ベイリャルとデイヴィッド2世)を捕らえたエドワード3世は、イングランドへ亡命してきたエドワード・ベイリャルには年金と引き替えにスコットランドの割譲を、敗北したデイヴィッド2世には以後のスコットランド王位の承継はイングランド王エドワード3世またはその嗣子に限るという約束を取り付けさせようとしていた。スコットランド議会はスコットランド王を人質に取ったこれらイングランドの振る舞いに激しく反発した。イングランドも大国フランスと交戦中でスコットランド侵攻を再開するまでの余力はなく、右往曲折の末1357年10月、デイヴィッド2世の釈放と引き換えに身代金10万マークを10年の分割払いで支払うことで合意した。デイヴィッド2世は釈放され、スコットランドへ帰国した。 詳細は「ベリック条約 (1357年)」を参照
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