東京第一フィルムとは? わかりやすく解説

東京第一フィルム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 00:53 UTC 版)

東京第一フィルム株式会社
Tokyo Daiichi Film Co., Ltd.
種類 株式会社
市場情報 消滅
本社所在地 日本
東京都千代田区有楽町1-1 日活国際会館
設立 1963年7月
業種 商社
代表者 曾我正史
資本金 1,000万円
関係する人物 ジュリアーナ・ストラミジョーリ
特記事項:
1963年3月 設立
1976年5月1日 第一フィルム株式会社に社名変更
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東京第一フィルム株式会社(とうきょうだいいちフィルム-、Tokyo Daiichi Film Co., Ltd., 1963年3月 設立 - 1970年代)は、かつて存在した日本の映画会社である。1976年(昭和51年)5月1日からは第一フィルム株式会社に社名変更した。

略歴・概要

前身は1949年(昭和24年)2月に設立されたイタリア映画の輸入配給会社イタリフィルムである[1]。同社は、1962年(昭和37年)3月、1億円弱の負債とともに曾我正史に営業譲渡され、創立以来の代表であったジュリアーナ・ストラミジョーリは引退、翌1963年(昭和38年)7月、曾我が新たに株式会社として設立したのが、この東京第一フィルムである[1]

曾我は、戦前は映画監督・振津嵐峡として、戦後は大映の専務取締役として、さらに1958年(昭和33年)には大映を退社し、日映を設立した人物として知られる[1]。イタリフィルムとは、曾我が会長を務めたニッポンシネマコーポレーション(NCC)時代に共同配給を行った縁があり、NCCは、1961年(昭和36年)7月、ヘラルド映画株式会社と合併して、日本ヘラルド映画株式会社(現在の角川映画)となっていた。

イタリア映画を中心に、アメリカ映画等を輸入配給し、1960年代 - 1970年代の当時、イタリア式コメディからジャッロ映画へ向かう傾向にあったイタリア映画をリアルタイムで紹介した。

同社が1971年(昭和46年)に公開した『小さな目撃者』のタイアップ広告の件で、同社とロッテが、子役俳優マーク・レスターと協同企画に訴えられる事件が起き、1976年(昭和51年)9月29日に東京地裁で謝罪広告を出すべく判決が下された[2]。同年5月1日には、臨時株主総会の決議により、第一フィルム株式会社と社名を変更している[3]。同年10月23日に公開した『セレモニー 結婚式』以降の公開作品については不明である[4]

おもなフィルモグラフィ

キネマ旬報映画データベースに見られる配給作品の一覧であり、日本での配給作品のみである[4]。製作順、特筆以外の製作国はすべて イタリアである。

1940年代 - 1950年代

1960年代

1970年代

  1. ^ a b c 日本映画発達史 IV 史上最高の映画時代』、田中純一郎、中公文庫、1976年3月10日 ISBN 4122003156, p.451.
  2. ^ パブリシティ権日本弁理士会、2010年7月29日閲覧。
  3. ^ 『映画年鑑 1977』、時事映画通信社、1977年、p.15.
  4. ^ a b キネマ旬報映画データベース Archived 2012年1月30日, at the Wayback Machine.、2010年7月29日閲覧。




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