窃符救趙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 15:42 UTC 版)
紀元前260年から紀元前257年にかけて秦が長平の戦いで趙を破ってその戦力を大幅に削ぎ、遂には趙の首都邯鄲(現在の河北省邯鄲市)を大軍で包囲するに至った。信陵君はこれを救援するための援軍を得るために如姫に安釐王が所持する軍の指揮権者が持つ割符の片方を盗み出す事を依頼し、如姫はこれを成し遂げ信陵君は魏軍の指揮官として趙に向かっていた将軍晋鄙から兵を得て邯鄲に向かい、同じく援軍に駆け付けた楚軍と共に秦の将軍王齕が率いる邯鄲包囲軍を撃退して秦軍から邯鄲を解放する事に成功した。
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窃符救趙
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紀元前260年の長平の戦いで趙の兵士数十万を坑殺した秦は紀元前258年に王陵に命じて国力が一気に衰えた趙の首都・邯鄲(現在の河北省邯鄲市)を大軍で包囲した。攻めあぐねた王陵が翌紀元前257年に王齕と交代させられるも、秦軍の包囲は続き邯鄲は風前の灯火であった。趙の宰相平原君は妻の故国である魏や楚に救援を求め、特に義弟信陵君に強く働きかけ、その説得で晋鄙率いる魏軍が邯鄲の援軍として進発した。 しかし、秦の強勢を恐れる安釐王は晋鄙に鄴城(現在の河北省邯鄲市臨漳県)に待機する様に命じ、晋鄙は命令通り軍の動きを止めた。少しして、信陵君が晋鄙の元を訪れ安釐王と晋鄙が持つ割符の片割れを見せ、軍の指揮権を渡す事を要求した。怪しんで指揮権の譲渡を渋った晋鄙は信陵君の傍に居た朱亥に40斤の鉄錘で撲殺され、軍の指揮権を奪った信陵君は魏軍を率いて邯鄲に向かうと楚軍と共同して秦軍を撃退して邯鄲を解放した。
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