穂積八束の批判
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穂積八束は明治民法の審議を通じて民法典論争以来の主張を繰り返したが、その姿勢も弱く、積極的支持者も無く、国情に反すると激しく非難されたものの多くは明治民法にも継承された。民法で「忠孝」を全うすることは不可能になったのである。 嗚呼我将来の民法に向て社会的の要素を注入せんと試みたる我輩の熱望を排斥したる者は必ず後に悔ゆることあらん…極端なる個人本位の民法の権利は過失なき不幸なる貧民を餓死せしむるの権利なり。 — 穂積八束「新法典及ヒ社会ノ権利」1896年(明治29年) 欧州の範型に鋳造されたる新法典は将に其成るを告げんとす。今にして日本固有法を説くは死児の齢を数ふるに似たり。然れども予は好で法の過去を論ず。死児は蘇すべからず。我数千年の民族固有法は他日天定め人に勝つの時なきを絶望せざればなり。家といふ観念の如き蓋其一なり。 — 穂積八束「「家」ノ法理的観念」1898年(明治31年) なお明治民法は八束の主張を全面的に受け入れて成立した「忠孝亡ぶこと無き民法」「国家的民法」だったとの主張もあるが(白羽祐三)、詳細不明。
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