皇帝として親政
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こうして1527年、莫登庸は恭皇より帝位の禅譲を受け、新王朝を創設した(莫朝)。元号を明徳と改め、建国の功臣に対する封爵を行った。また恭皇を泰王に降封した後に、母の鄭氏鸞(中国語版)と共に自害を強要した。混乱を恐れた莫登庸は黎朝の律令をそのまま引き継ぎ、黎朝の遺臣の支持の掌握を図った。しかし黎朝の功臣の子孫たちの大半は亡命あるいは隠遁し、中には盗賊となる者すらあったとされる。阮弘裕の養子の阮淦も弟と共に逃亡して黎朝の復興を図り、後に莫朝を滅ぼす敵対勢力へと発展する事となる。翌年の1528年より、莫登庸は兵制・田制・地方官制などの改革に着手した。 1529年、老齢のため子の莫登瀛(廟号:莫太宗)に譲位し、自らは太上皇に即位した。退位後は宜陽県古斎の祥光殿にて幼少期同様に釣魚を楽しむ生活を送ったが、その一方で莫朝の朝政の実権はまだ莫登庸が握っており、莫登瀛政権を外部から支援する役割を担う事が真の目的であったという。
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