画風の確立を目指して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:48 UTC 版)
大正期に入ると、それまでの歴史上の故事に取材した作品にかわって、身辺の風物を題材とした作品が主流を占めるようになり、1913年(大正2年)の『鉄漿蜻蛉』(おはぐろとんぼ)、1914年(大正3年)の『ゆふべ』、『媼』、1916年(大正5年)の『花野』などが生み出された。同じ年に文展の永久無鑑査作家、翌年には絵画専門学校の助教授に昇進している。1918年(大正7年)に師であり、義父でもある芳文が死去すると、師の後継者として「菊池塾」の主宰者となり、同年には絵画専門学校の教授、さらに文展の審査員にも就任した。文展が翌年帝展に改組されたのちも、引き続いて審査委員をつとめている。このように、画壇での地位を着実に高めていきながらも、1920年(大正9年)の『少女』では、それ以前の作品に見られなかった鮮烈な色彩、不気味なまでに生々しい写実的表現が見られ、師匠から受け継いだ四条派の伝統を墨守するだけでなく、それを踏まえたうえで新しい独自の画風を確立しようとする姿勢が窺える。
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