甲相駿三国同盟
(甲駿相三国同盟 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/03 02:16 UTC 版)
甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)とは、天文23年(1554年)に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつである。永禄10年(1567年)の今川家による塩止めにて破綻。甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意によるもの。締結時に3者が会合したという伝説(後述)から
注釈
- ^ 政略結婚だったが、仲が良かったとされる 結婚の翌年、初産を迎えたが難産だった末に母子ともに死去している (『勝山記』『山資』六所載)
- ^ 『甲斐国志』では双方合意の上で、信虎が隠居したとされる。
- ^ 信虎追放に関して板垣信方・甘利虎泰ら譜代家臣も追放を支持し、更に晴信の弟である信繁も追放に協力したとされる。『勝山記』によれば信虎の対外侵攻の軍役による重税や周辺諸国と激しい対立による路次封鎖の影響で物価高騰があり、度重なる凶作や天災による大飢饉などが原因で領民から不満や反発あったとしている。また、今川義元との共謀説などの諸説ある。
- ^ 信虎は娘の定恵院の嫁ぎ先である今川家に身を寄せる。 今川義元は晴信に対して、信虎の隠居料を請求している。(『堀江家所蔵文書』年未詳9月23日付の今川義元書状)信虎が駿河にいる間、武田家から隠居料が支払われ続けており、この事から晴信が支払っていた事が窺える。
- ^ 武田氏は天文9年に諏訪頼重・佐久郡の村上義清と共同で小県出兵を行い海野棟綱を駆逐していたが(海野平の戦い)、関東管領の上杉憲政は天文10年7月に棟綱を支援して出兵し、諏訪頼重は武田・村上氏に無断で上杉憲政と和睦しており、晴信による諏訪侵攻の背景には武田氏がこれを盟約違反と認識したことがあると考えられている[1]。
- ^ そもそも働きかけているのは今川家の太原雪斎である。
- ^ 浅倉の説明によれば、北条氏では氏康の長男であった氏親の早世によって万が一のための後継者候補であった次男の氏政が実際に後継者になってしまい、氏政にも万が一があった時の後継者候補を必要としたが、三男である氏照に大石氏を相続させることになったため、四男の氏規を一刻も速く駿河から呼び戻したいと考えるようになった。これに対して、今川氏では近親者の乏しい氏真を支えるために一門の関口氏を氏真の従兄である氏規に継がせる構想を持ち、実際に氏規は関口親永(氏純)の婿養子になっていたとしている。なお、浅倉の見解が正しかった場合、氏規の妻だった女性は築山殿の姉妹ということになる。
- ^ 今川義元は永禄元年(1558年)頃に小田原城を訪問して北条氏康と会談した記録があるが、氏康が駿府を訪れた記録は無く、極めて異例であった[10]。
- ^ 丸島和洋は桶狭間の戦いでも武田氏が今川軍に援軍を送った可能性が高く、武田軍の行動に戦後の今川家中で疑念が持たれたことが武田・今川両家の関係を不安定にしたとする[12]。
- ^ 松平元康の独立の背景には今川氏真が領国三河の防衛よりも三国同盟に基づいて上杉謙信に攻められた北条氏の救援を優先したことで、元康が今川氏からの独立の好機とみたとする説[13] や織田氏に滅ぼされる前に和睦して領国を守ろうと考えたとする説[14] がある。いずれにしても、これらの説は三国同盟の維持によって結果的に今川氏が三河を失うことになったとする。また、大石泰史は今川氏真が子の世代であったために、親世代である氏康・信玄への遠慮・配慮が必要とされたことが関東への強引な出兵につながり、元康離反についても対上杉戦への支援と引き換えに三河への援軍を得ようと考えていたのではないかと推測する[15]。
- ^ なお、上杉氏との川中島の戦いにおいては将軍足利義輝による仲介が行われており、第四次川中島の戦いの行われた永禄4年に義輝は上杉政虎(謙信)に対して前信濃守護小笠原長時の帰国支援を命じる形で川中島への介入を認めており、武田氏の外交が畿内情勢と関係して展開されている点が注目される。
- ^ 平山優氏「切腹だったのか、病死だったのか、これまで二説に分かれていましたが、このほど大河ドラマ『真田丸』でも時代考証を担当されていた黒田基樹氏により新史料が発掘されまして病死だという事が明らかになりました」 NHK大河ドラマ「どうする家康」コラム 大河と歴史の裏話『文化人としての 武田信玄・今川義元を描く』2023年6月25日
出典
- ^ 平山優『川中島の戦い』
- ^ 黒田 2021, pp. 271–273, 大石泰史「対立から同盟へ-今川義元・氏真と氏康の関係性-」.
- ^ 黒田 2017, pp. 157.
- ^ 黒田 2017, pp. 88–91.
- ^ 黒田 2017, pp. 162–163.
- ^ 黒田 2019, pp. 164–165, 小川雄「流通支配と経済構造」.
- ^ 小川雄「一五五〇年代の東美濃・奥三河情勢-武田氏・今川氏・織田氏・斎藤氏の関係を中心として」『武田氏研究』47号、2013年。/所収:大石 2019, pp. 284–304
- ^ 浅倉直美「総論 北条氏照の研究」『北条氏照』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三一巻〉、2021年、13-16頁。ISBN 978-4-86403-377-0。
- ^ 黒田 2021, p. 41, 浅倉直美「北条家の繁栄をもたらした氏康の家族」.
- ^ 黒田 2017, pp. 184–187.
- ^ 大石泰史『城の政治戦略』KADOKAWA〈角川選書〉、2020年、104-110頁。ISBN 978-4-04-703676-5。
- ^ 丸島 2019, pp. 392–395.
- ^ 柴裕之「永禄期における今川・松平両氏の戦争と室町幕府―将軍足利義輝の駿・三停戦令の考察を通じて―」『地方史研究』315号、2005年。/改題所収:柴裕之「今川・松平両氏の戦争と室町幕府将軍」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年。
- ^ 丸島和洋「松平元康の岡崎城帰還」76号、戦国史研究、2016年。
- ^ 黒田 2021, pp. 275–276, 大石泰史「対立から同盟へ-今川義元・氏真と氏康の関係性-」.
- ^ 丸島 2019, pp. 399–401.
- ^ 「戦国北条フェスオフィシャルブックvol.1」2024年1月7日 『武田信玄・勝頼の対北条氏外交と戦略』平山優 p.27
- ^ 『「時代を駆け抜けた戦国武将たち~武田信玄の新研究・義信事件を考える」講師は、2016年NHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当された駿河台大学教授の黒田基樹先生。重要史料によれば、義信は病死であった。これにより事件の背景や事件への信玄の処置についての理解は、大きく考え直さなければならない。事件について新たな見解を提示し、真実に迫る。』武田信玄の新研究【NHKカルチャーオンデマンド講座】2022年4月22日
- ^ 「永禄10年というと、甲斐国の武田信玄の嫡男・義信が病死した年でもありました。」【豊臣秀頼が出馬していれば家康を打ち取れたかもしれない家康に切腹を覚悟させた真田信繁のツワモノぶり…大坂夏の陣で家康本陣を切り崩したラストサムライの最期】2023.12.04 濱田浩一郎氏
- ^ 「永禄10年(1567年)に病死。」【徳川家康が「武田信玄」に心開かなかった複雑事情】2023/02/26 濱田浩一郎氏
- ^ 大石泰史『今川氏滅亡』271–272頁. KADOKAWA〈角川選書604〉2018年5月18日。ISBN 978-4-04-703633-8。
- ^ a b c 「戦国北条フェスオフィシャルブックvol.1」2024年1月7日 『武田信玄・勝頼の対北条氏外交と戦略』平山優 p.27
- ^ 大石泰史『今川氏滅亡』272頁. KADOKAWA〈角川選書604〉、2018年5月18日。ISBN 978-4-04-703633-8。
- ^ “かつての抗争相手の妹を徳川秀忠の「育ての親」に 家康は今川家を頼りにしていたのか”. AERA dot. (2023年8月27日). 2023年9月5日閲覧。
- ^ “信長でも秀吉でも信玄でもない…「徳川家康にもっとも影響を与えた戦国大名」の数奇な生涯”. PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) (2023年5月4日). 2023年12月14日閲覧。
- ^ a b 丸島 2019, pp. 402–406.
- ^ 「戦国北条フェスオフィシャルブックvol.1」2024年1月7日 『武田信玄・勝頼の対北条氏外交と戦略』平山優 p.27
- ^ 丸島和洋『戦国大名の「外交」』講談社〈講談社選書メチエ〉、2013年、151頁。
- ^ 浅倉直美「北条氏政正室黄梅院殿と北条氏直」『武田氏研究』第59号、2019年1月、1-13頁。
- ^ 黒田基樹「総論 北条氏直の研究」『シリーズ・中世関東武士の研究 第二九巻 北条氏直』P9-12.
- ^ 海老名真治「氏康と武田信玄-第一次甲相同盟の展開-」『北条氏康とその時代』P296-297.
- ^ 丸島 2019, p. 395.
- 甲駿相三国同盟のページへのリンク