瓊韻社以後とは? わかりやすく解説

瓊韻社以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 06:20 UTC 版)

雁金準一」の記事における「瓊韻社以後」の解説

1933年八段1941年高部との対立により、一門率いて棋正社離脱して瓊韻社設立同年62歳で、日本棋院呉清源七段と打込み十番碁を開始。この時の手合割について、日本棋院では雁金段位認めるかが問題となったが、雁金意向互先となる。戦績翌年第5局まで雁金の1勝4敗となり、打ち切りとなったまた、続いて瓊韻社渡辺昇吉六段藤沢庫之助六段との十番碁も行われるが、藤沢3連勝打ち切りとなる。 その後日本棋院棋士との交流手合もあり、また棋院への復帰運動もあったが、瓊韻社とどまり続けた1944年準名人戦(読売新聞主催)に出場呉清源に白番ジゴとする。1952年全本因坊全八段戦出場橋本昭宇に白番半目負け1953年瀬越憲作鈴木為次郎とによる三長老戦で3勝1敗で優勝1959年1月九段推挙同年2月東京都板橋区自宅で没。日本棋院より名誉九段追贈される。墓所顕本寺。秀栄は、手の見える碁と評していた。また性格温厚人格高潔であった世に言われている。 門下に、渡辺昇吉九段富田忠夫八段ら。鄒海石笠井浩二少年時代指導受けた富田門下には王銘琬九段鄭銘瑝九段らがおり、王の本因坊獲得により、孫弟子の代で本因坊位に就いたとも言える。またかつて伊藤家出入りしていた飯野吉三郎は、晩年囲碁を学ぶために雁金教授申し込み棋正社初段受けた

※この「瓊韻社以後」の解説は、「雁金準一」の解説の一部です。
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