瓊韻社以後
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1933年、八段。 1941年、高部との対立により、一門を率いて棋正社を離脱して瓊韻社を設立。同年、62歳で、日本棋院の呉清源七段と打込み十番碁を開始。この時の手合割について、日本棋院では雁金の段位を認めるかが問題となったが、雁金の意向で互先となる。戦績は翌年第5局まで雁金の1勝4敗となり、打ち切りとなった。また、続いて瓊韻社の渡辺昇吉六段の藤沢庫之助六段との十番碁も行われるが、藤沢3連勝で打ち切りとなる。 その後、日本棋院棋士との交流手合もあり、また棋院への復帰運動もあったが、瓊韻社にとどまり続けた。1944年、準名人戦(読売新聞主催)に出場、呉清源に白番ジゴとする。1952年、全本因坊全八段戦に出場、橋本昭宇に白番半目負け。1953年、瀬越憲作、鈴木為次郎とによる三長老戦で3勝1敗で優勝。 1959年1月、九段に推挙。同年2月東京都板橋区の自宅で没。日本棋院より名誉九段を追贈される。墓所は顕本寺。秀栄は、手の見える碁と評していた。また性格温厚、人格高潔であったと世に言われている。 門下に、渡辺昇吉九段、富田忠夫八段ら。鄒海石、笠井浩二も少年時代に指導を受けた。富田門下には王銘琬九段、鄭銘瑝九段らがおり、王の本因坊位獲得により、孫弟子の代で本因坊位に就いたとも言える。またかつて伊藤家に出入りしていた飯野吉三郎は、晩年に囲碁を学ぶために雁金に教授を申し込み、棋正社初段を受けた。
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